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第五幕 切り倒された月桂樹の枝を(10)

 私はソラくんにタオルとスポーツドリンクを渡す。


「汗冷える前に拭いて……タイガくんは?」

「兄ちゃんなら、ボール拾いに行った」


 喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲んでいるソラくんの後ろに目をやる。

 いない。見当たらない。

 見回す。


「タイガ!」


 晄くんの大声にそちらを見る。

 晄くんは既に走り出していた。


 公園の向こうは、大きな池だ。

 柵の向こうで水しぶきが上がる。

 水鳥が数羽、飛び立った。


「タイガ! こっち見ろ!」


 晄くんが叫んで、左右を見回した。また走り出す。


 私は隣を見た。ソラくんが震えている。

 自分のコートをソラくんに被せた。

 その上からソラくんの肩を掴む。


「ソラくん」


 ソラくんと目が合っていることを確認して、大きな声でゆっくりと話す。


「ソラくん、ここで、荷物を見てて。絶対に、ここから動かないでね」


 声が出ないのか、ソラくんはただ頷いた。

 私はコートのポケットからスマホを取り出す。

 タオルとブランケットを掴んでタイガくんが落ちた辺りを目指して走り出した。

 走りながら電話を掛けた。


 配送の仕事をしていてよかった。

 住所と場所がすらすらと口をついて出た。


「事故です! 救急車をお願いします! 中学生の男の子が、池に落ちました!」

「すぐに向かいます」


 オペレーターさんの落ち着いた声に安堵して通話を切る。


 晄くんが救命用の浮き輪を投げた。水しぶきが上がる。


 どうして、私の足はこんなに遅いんだろう。

 もっと痩せておけばよかった。


「晄くん! タイガくんは?」

「紋!」


 晄くんが上着を脱ぎだした。靴も脱ぐ。


 水に落ちた人を助けるとき、むやみに飛び込んではいけない。

 それは知っている。

 でも、晄くんは、それでは間に合わないと判断した。


「紋、このロープたぐり寄せて浮き輪引き上げて。ロープはここの支柱に端を括り付けてから、足で踏んで。俺が合図したら俺の頭の向こう側に浮き輪投げて」

「分かった」


 私がロープを受け取って引っ張り出したのを確認すると、晄くんは池に飛び込んだ。そのまま、まっすぐに泳いで、水の中に潜る。

 浮き輪を抱きしめて合図を待つ。


 頭だけ出した晄くんと目が合った。


「紋!」


 晄くんが片手を振る。


 ロープを踏んで、晄くんの頭の向こう側を狙って浮き輪を投げた。


 晄くんの顔の横に落ちてしまう。


 晄くんは片手で浮き輪に捕まった。

 力いっぱい引っ張る。重い。踏ん張るので精いっぱいだ。

 遠くでサイレンが聞こえた気がした。

 振り返る余裕はない。

 不意にロープが軽くなった。

 目の前で、オレンジ色のつなぎを着た救助隊員がロープを掴んでいた。


「引き上げます! ロープ離さないで! せーの!」


 その力強さに負けて、後ろにすっ転んだ。


 起き上がったときに目に入ったのは、タイガくんを引き上げている救助隊員の後ろ姿。

 それから、自力で上がってきた、晄くん。


 私は座ったまま、その様子を見ることしかできなかった。


「息子さんを搬送しますので、付き添いお願いします」


 白い服の救急隊員から声を掛けられて我に返る。

 首を横に振る。


「晄くん、タイガくんと一緒に行って」

「分かった」


 毛布に包まっている晄くんに、上着とブランケットを手渡した。


「私はソラくんを家に送って、家の人に事情を説明する。そのあと、駐在所に寄って、晄くんの服持って病院行くから」


 晄くんが頷いて、私の頭を引き寄せる。


「うん。病院着いたら連絡入れる。ありがとう、紋が一緒で助かった」


 担架で運ばれていくタイガくんと付き添う晄くんを見送って、ソラくんの隣に戻ってきた。

 震えて泣いているソラくんを抱きしめる。


「よく頑張ったね。すごいね。偉いね。ありがとう、ソラくん」


 声を上げて泣き出したソラくんの背中を軽く叩いて落ち着かせる。

 落ち着いてきたソラくんにお茶を飲ませた。私もお茶を飲んでから、レジャーシートを片付けて、ソラくんと手を繋いで車に戻った。


 ソラくんを家に送り届けてからが少し大変だったけれど、夕方には何とか晄くんを回収して車に乗せていた。


「ごめん、紋。デートまたやり直してもいい?」

「うん。晄くんの次のお休みの日、楽しみにしとく」


 タイガくんは無事だった。

 池の水をかなり飲んでしまったので、1日病院で様子を見るらしい。

 それだけは本当によかったと思う。

 タイガくんのお母さんに引っ叩かれたことも、今はひとまず脇に置ける。

 ……と思ったけれど、思い出したらちょっとムカついてきた。

 だいたい他人の家を託児所のように扱っておいて、挨拶のひとつもなく、全部の責任を私に押し付けるのはどうかと思う。


「紋」

「何?」

「本当にごめん」

「なんで晄くんが謝るの?」

「俺が紋を優先できなかったから、紋に嫌な思いさせた」


 受け入れるのが難しい謝罪だった。

 晄くんだけの問題ではないから。


「晄くんのせいじゃないよ」


 そう答えた。


 晄くんを家の前で降ろし、我が家へ帰ってくる。

 静かな家。

 空の色が夕方から夜に変わっていく。


 ピアノの鍵盤蓋を開けた。

 今日1日あったことを考える。

 色々ありすぎて、整理しきれない。


 それでも。

 それでも、晄くんは私を守ろうとしてくれた。


 私も、晄くんを守りたい。

 この思いは、本物だ。


 夜が来た。

 カーテンを開けて、外を見る。

 はらはらと雪が落ちていく。

 風が強く吹いた。


 雲間から降る青白い月の光。弱く繊細な光。

 薄く雪が積もる庭に優しく模様を描いていく。

 時々、雲に遮られてかき消され、また現れる。

 気まぐれに近づき、離れ、絡み合う。アラベスク模様のように。


 晄くんにメッセージを1つ送ってから、鍵盤の上に静かに指を置いた。

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