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エピローグ コハクチョウの北帰行


 まだ寒さの残る朝の空気に微かにピアノの音が混じっていることが分かる。

 犬塚が駐在所を出たところで大きく伸びをしていた。

 ここに来たばかりの頃に比べると、背中がひと回り大きくなった。

 あの頃の犬塚は、まっすぐに歩けているのが不思議なほどやつれていた。

 今の犬塚は、二十代の頃よりもがっしりした体をしていた。太ったわけではなく、職業柄必要な筋肉が、必要なだけ体についた。そんな印象だ。


「おはよう」

「おはよう」


 声をかけると振り返った犬塚が答える。


「ピアノの音で迎える朝とか、優雅すぎるな」

「そうだねえ」


 プロの演奏を大音量で再生しているのだと思っていた。


 午前8時と午後8時、俺と犬塚の交代の時間。

 駐在所の向かいにある3階建ての小さな家。その借り主が奏でている。


「うちの子、この曲聞くと泣き止むんだよなあ」

「キラキラ星変奏曲」

「それそれ。なんかだんだん難しくなっていくのに、澄まし顔で弾きこなしてる高城さんの顔が浮かぶんだよな」


 犬塚が笑った。


 高城さんは市から請われて、職員向けにパソコン教室を開いたり、小学校でプログラミングの授業をしたり、配送の仕事の傍ら地域の包括支援センターから見回りと声かけの仕事を受託したりと、地域に深く根を下ろしつつある。

 彼女の能力の高さには舌を巻くばかりだ。

 恵美がアドバイザーについているとはいえ、実際に出掛けてプレゼンして交渉までやっているのは高城さん自身だ。

 断られることもあるし、難航することもあるだろうに、高城さんは反省しても引きずることなく翌日には笑顔で挨拶してくる。

 精神的にタフだ。虫を見て腰を抜かすところを除けば。


 そして、越冬すら怪しかった犬塚は、元気になった。

 どう考えても高城さんに出会った日からだったから、少しつついてみた。

 犬塚は全部話した。元から隠す気もなかったのだろう。

 高城さんが、犬塚の元恋人――犬塚が追い詰めて、居場所を奪ってしまった人だった。


 四六時中押しかけてくる犬塚ファンの女性とは違い、高城さんはほとんど駐在所へ来なかった。

 犬塚の連絡先を知っているという余裕もあっただろうが、煮物にも唐揚げにも漬け物にも反応せず、女性に取り囲まれている犬塚をまっすぐに見ていた。


 長い冬の間。毎晩のように微かに聞こえていたピアノの音。

 それに耳を傾けていた犬塚が、何を考えていたのか俺は知らない。

 それでも、見ていたら分かる。

 犬塚の表情が少しずつ動くようになった。

 食事量が増えて、俺相手なら軽口も叩けるようになった。

 相談事も増えた。生活に困る部分――食料はどこで買うのか、服はどこで買うのか、こたつ布団の洗濯の仕方まで。

 なんやかんや構ってくる女性陣でなく、俺に聞いてくるあたり、犬塚がどれほど高城さんを大切にしているか分かってしまう。

 2人がくっつくまで俺以上にやきもきしていた人間はいない。


 先日、犬塚から、プロポーズに指輪は必要か、と聞かれた。

 俺が答えるより先に、恵美が「指輪よりも家じゃない?」と答えた。


「分かった。家買おう」

「内装は奥さんの意見最優先だからね?」

「なるほど」


 真面目くさった顔をしてメモを取っているが、メモ用紙はチラシの裏だったりした。


 犬塚は冗談が好きなのだと思っていた。

 でも、最近になって分かってきたのは、犬塚は周りの人間が笑顔でいることが好きだということだ。

 周りを笑わせるために自分の気持ちを無視して冗談を言って、笑える雰囲気を作ろうとする。

 それが犬塚が言っていた“平気なフリ”だった。


 不意にピアノの音が止まった。

 曲の途中なのに珍しい。


 犬塚が高城さんの家を見て、それから空を見上げた。


 微かに聞こえたのは、白鳥の鳴き声。

 数羽の白鳥が飛んでいく。


「北に帰るんだな」

「もう? もっといればいいのに」


 犬塚が不満そうに呟く。


「来年、また来るだろ」

「そうかもしれないけど」


 犬塚は手を伸ばした。

 向かいの家の3階の窓から高城さんが身を乗り出していた。

 きっと高城さんも、同じような顔をして、同じように手を伸ばしているのだろうと思った。



Fin.

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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