第五幕 切り倒された月桂樹の枝を(8)
小走りに晄くんに近寄る。
「今、県警から連絡来た。賢治、捕まえたって」
「え?」
「速度超過で止められて、警察手帳も持ってなかったらしいよ」
「捕まえるの、早くない?」
「ナンバー伝えたから。たぶん、白バイ隊が出たんだと思うけど」
どうぞ、と駐在所の中に通される。
駐在所が静かだ。
「晄くん1人?」
「うん。大嶋は昼まで」
「ソラくんたちは?」
「暗くなる前に帰した」
小さな振動音がした。
晄くんが机の上のスマホを取り上げる。
誰かからのメッセージだったのか、画面をタップしてからスマホを机の上に伏せた。
「紋、座って」
「うん」
腰を下ろす。
用紙が1枚、目の前に置かれた。
「被害届、出す?」
「出さなくてもいいの?」
「うん。そのときは俺が日報に『1件トラブル対処あり』って書くだけ」
どうして、被害届を出さない選択肢を示すのだろう。
晄くんは身内だからと庇う人じゃない。
なら理由は別にある。
警察の不祥事。あるいは――趙くん。
山口さんは趙くんの連絡先を知りたがった。
私が山口さんに対して被害届を出せば、山口さんはきっと趙くんのことを調べていたと答えるだろう。
警察は、私と趙くんの繋がりを示そうとするかもしれない。今は繋がりも何もないけれど、疑われてしまうかもしれない。また、あの尋問を受けることになるかもしれない。
そうなったとき、晄くんはどうするのだろう。
会えなくなるのだろうか。
いや、その前に私がこの町から追い出されてしまうかもしれない。
だから、晄くんは被害届を出さない選択肢を示したのか。
出さないことで晄くんの勤務態度の評価が落ちたりしないだろうか。
紙を前にして固まっていると、晄くんが話しかけてきた。
「あのね、紋。俺、賢治を殴ろうとして、仲間に止められたことがある」
「晄くんが?」
「そう。そのときは、後輩が体張って止めてくれて、修也も賢治を宥めてくれて、上にはバレなかったんだけど。俺と賢治が上手くいってないことは、仲間内はみんな知ってる」
意外だった。
晄くんが感情的になって手を出すところなんて、想像できない。
「正直、賢治には2度と会いたくない。紋の家の玄関に塩撒きたいくらい会いたくない」
「塩」
「お清め塩」
私も、会いたくない。
「晄くんと山口さんが仲悪くなったの、あの合コンの後?」
「うん」
「鷲尾商事の事件の後?」
「それは内緒」
捜査中に何かで衝突したのか。
私の取り扱い方かもしれない。
山口さんなら晄くんに『あの女から情報引き出してこい』くらいは言うだろう。
実際、会社に警察が踏み込んだとき、山口さんはそんなことを言っていた気がする。
晄くんは否定していた。
修也さんも、晄くんは私から情報を取っていないことの裏付けが取れたと言っていた。
「被害届は出さない。でも、澤村さんに電話してもいいかな」
「澤村?」
「うん。捜査一課の澤村さん」
「それは、構わないけど」
晄くんは不思議そうに頷いた。
晄くんの前で電話を掛けた。
もう時間外かもしれない、と思ったけれど、2コールで澤村さんが電話に出た。
「澤村です」
「高城です。以前、鷲尾商事のことでお世話になりました」
「はい! こちらこそ、色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
覚えていてくれた。
かなり時間が経っているから、もう記憶にないかと思っていた。たくさん説明しなくてもいいと分かって、肩の力が抜けた。
「今日、捜査二課の山口賢治さんが、うちに来られたんです」
「山口さん、ですか?」
澤村さんの口調が、ゆっくりと確認するものに変わった。
「はい。趙くんの連絡先を訊かれました」
「趙……王潔さんですね、鷲尾商事の営業部にいた」
「はい。趙くんとは最近、連絡は取っていないので、山口さんには、知らないと答えました」
「そうですか。ありがとうございます。今後も、山口さんから何か訊かれても絶対に答えないでください」
「絶対に?」
「あ、いや、えぇと、すみません、少し待ってもらえますか?」
「はい」
澤村さんの声が遠ざかる。
保留音が流れる。
晄くんのスマホが振動した。メッセージが届いたのか、晄くんは画面を見ただけで伏せてしまう。
「お待たせして申し訳ありません。捜査一課で澤村の上司をしております、築島と申します」
「高城と申します」
「山口がご迷惑をおかけしたようで申し訳ありませんでした」
少し緊張感のある丁寧な口調で、電話越しでも頭を下げているのが分かる。
「何もお力になれず」
「いえいえ。山口は既に鷲尾商事さんの事件の担当を外されておりますので、今後、高城様に接触することはないと聞いております。今日のことについては、然るべき措置をとりまして、改めて謝罪させていただければ、と」
「いえ、結構です、おおごとにする気は全くありませんので」
肩をつつかれた。
「紋、替わって」
「あ、あの、築島さん、犬塚さんに替わります」
「はい。……ええ?!」
「お電話替わりました。新潟県警、犬塚です」
一瞬の間を置いて、築島さんの悲鳴が聞こえる。
「いや、築島さん、叫びすぎでしょう」
晄くんが苦笑いした。
その後は、築島さんの声は聞こえなくなった。
「あー、なるほど。ああ、そのへんは公安の新山さんからメッセージきた。そう、今は県警が身柄確保してるから。はいはい、了解。彼女には俺から言っとくから。はい、よろしく」
スマホが返ってくる。通話は切れていた。
「賢治、警察手帳取り上げられるみたい」
「取り上げ?」
「実質のクビ。謹慎処分中だったのに、速度超過で身元照会が本庁までいっちゃって、勝手に遠出してたのがバレた。謹慎中は必要最低限の外出しか許されないから、派手な自爆だね」
「謹慎中だったんだ」
「そう。違法捜査したのが確定したから、謹慎明けたら捜査部から異動させる予定だったみたい」
だから澤村さんは“絶対に”答えるなと言ったのか、と合点がいく。
山口さんのやらかしに、何となく、杉山さんを思い出してしまった。
功を焦るあまり、常識やモラルを忘れてしまうところとか。
なぜか自分が女性から好かれると思い込んでいるところとか。
「紋」
「何?」
「本当に被害届、出さなくていいの?」
頷く。
「なんで?」
「……保身」
「ホシン?」
「事件にしたら、村八分とか、されそう」
1番の理由は言いたくなかったから、2番目の理由を言った。
「そこまで排他的な地域ではないけど、確かに井戸端会議の話題にはされるだろうね」
「困る」
「うん、分かった」
晄くんはそれ以上は何も言わず、パソコンを立ち上げると、日報と書かれたフォルダを開く。
画面から目を逸らして、窓の外を見た。
夜だ。駐在所の明かりは弱くて、すぐそこの道路も見えない。
私は今日、線を引いたのだと思う。
譲れるところと、何があっても譲らないところの境界線。
今まで、誰かの利益になるなら、と全てを差し出してきたけれど。
私の利益のために私自身を大切にすることは、悪いことじゃないと思う。
私が嫌だと思うなら、都合よく使われるコマにならなくてもいい。少しだけワガママになって、私の思いを優先してもいい。
それは、もしかしたら誰かのために割いていた私の時間や能力を制限することになるかもしれないけど。
「ごめんね、晄くん」
「何? 突然」
「私、あんまり晄くんの役に立てそうにない」
人の役に立つことで、好きになってもらおうとしていた。
でも、それだけでは駄目なのだと、ようやく分かった。
私は晄くんを、役に立つから好きになったわけじゃない。
きっと、晄くんもそうだ。
そこから先に、何かある気がする。
晄くんが手を止めて私を見た。
「紋は生きてるだけで俺の力になってくれてるから」
「それは大袈裟」
「本当だよ」
晄くんがこちらを見て首を傾げる。
「俺はきっと紋がいなくても生きていくと思う。でも、紋が俺の近くで笑ってくれたら、凄く元気になれる気がする」
私に気を遣ったのだと思う。私が晄くんを選ばなくても負担に感じないように。
もしも晄くんと一緒に生きていくとしたら。
私はどんな気持ちで過ごすのだろう。
晄くんはずっとこの駐在所で働くのだろうか。私の仕事はどうなっていくのだろう。
少し先の未来に息苦しいような不安を感じながら、夜が深くなっていく様子を見ていた。




