第五幕 切り倒された月桂樹の枝を(7)
配送の仕事も落ち着いてきた年末。
切迫早産の可能性がある恵美さんは入院になり、夫である大嶋さんが手続きなどで駐在所を空けることが多くなった。
晄くんが1人で駐在所に詰めるようになると、煮物が余った女性や、唐揚げを揚げすぎた女性がさらに増えた。漬け物を漬けすぎたおばあちゃんも現れた。
駐在所前のスペースで、ソラくんとタイガくんがサッカーボールを蹴っている姿もよく見るようになって、駐在所は社交場になりつつあった。
私はというと、晄くんと話したくてもその社交場に踏み入る勇気がなく、駐在所の前を通るたびにため息をつく毎日だ。
配送の仕事がない日は一日中、その苛立ちを全てピアノにぶつけるようになり、鍛えられた手の筋肉は腱鞘炎になることもなくなった。
夕方。
家のチャイムが鳴った。
大嶋さんが料理を教わりに来ることが増えていたので、特に深く考えずにドアを開けた。
「紋ちゃん、久しぶり」
捜査二課の山口さんだった。
修也さんに逮捕されたはず。
起訴されなかったのか、注意や減給だけで済んだのか。
それとも、今はもう刑事ではないのか。
どうしてここにいるのか。
どうして私の住所を知っているのか。
混乱した。
山口さんは胡散臭い笑顔のまま、玄関に入ってきた。
山口さんの後ろでドアが閉まる。
後ずさる。
「何? びっくりした? それとも、覚えてない? 俺、ほら、捜査二課の山口賢治です」
手帳は、出してこなかった。
「何かご用ですか?」
「ちょっと聞きたいことあってさー、少し長くなるから、上がらせてもらえない?」
私は首を横に振った。
「紋ちゃん、冷たいなあ。鷲尾商事のときはあんなに協力してくれたのに」
ポケットに入れていたスマホが短い通知音を鳴らした。
配送の仕事が入ったときの通知だ。
「すみません、少し失礼します」
断ってからスマホを取り出す。
通知は流し見だけして、晄くんの携帯番号に電話をかけた。
出るかどうかは分からない。
それでも、通話状態のままスマホをポケットに戻す。
「失礼しました。それで、山口さん。何のお話ですか?」
「鷲尾商事の社長、捕まったニュース見た? あれでさ、今、余罪ないか調べてるんだけど。紋ちゃんのところに情報入ってないかな?」
「申し訳ありませんが、私からお話しできることは何もありません」
「晄のこと、誰かから聞いた? あいつ、一課クビになったんだよね。どっかの駐在所にとばされたらしいけど。俺も、このヤマを逃すとマズイことになりそうだからさ。このとおり、ちょっと力貸してくんない?」
両手を合わせて拝まれた。
「営業部にいた趙っていう人。彼の連絡先、教えてよ。彼、HDMホールディングスに残らなかったんだよね。それで連絡つかなくなって困ってて」
趙くんなら、澤村さんが調べているはずだ。
私が彼の名前を澤村さんに渡した。
必要な情報なら警察内で共有されるだろうし、されていないなら趙くんは無関係と判断されている。
山口さんは、晄くんがここにいることも知らない。
「趙くんから連絡はもらっていません。彼がどうしているかは、私には分かりません」
「趙くんと仲良かったんだよね? もしかして元カレとか? 元カレじゃ、連絡もしづらいか」
これは、煽りか。無神経なだけか。
判断がつかなくて無表情を貫く。
「でもさ、紋ちゃん、前よりずっと綺麗になったし、今の紋ちゃんなら趙くんもよりを戻したがると思うんだ。ちょっとだけ、会いたいって連絡してもらえないかなあ?」
「申し訳ありませんが、ご協力はできません」
昔なら『できかねます』とか、『難しいです』と答えていた。けれど山口さんには、曖昧な断り方をするほうが怖かった。
この人には、仕事の言葉も、普通の断り文句も通じない。
この人と長く話せば話すほど、自分が危険になる気がする。杉山さんと、同じ匂いがする。
「お帰り願います!」
声を張って言った。
どうか、この声を、晄くんが聞いていますように。
「そう言わずにさ」
「失礼します」
チャイムを鳴らさずに入ってきたのは、晄くんだった。
「晄? なんで」
「この家の真ん前、駐在所だよ。俺の今の現場」
すとん、と座り込んでしまう。
両手足が細かく震えている。
突然やって来た過去は、思った以上に私を消耗させていた。
晄くんは大丈夫だろうか。
晄くんの揺らぎのない目とぶつかった。
晄くんは靴を脱ぐと私のところまで歩いてきて、しゃがみ込む。
「紋、何もされてない? 大丈夫?」
無言で何度も頷く。
声を出したら、涙が出そうだった。
晄くんは私の頬を撫でてから立ち上がる。
私に背を向けて、山口さんに向かって警察手帳を取り出した。
「新潟県警所属。警部補、犬塚です」
「ああ、女がいるから、こっちに異動してきたのか。階級1つ下げてまで駐在所勤務? おまえもよくやるよな」
蔑むような口調にも、晄くんは動じなかった。
「元々、交番勤務希望で採用試験通ってるんでね。今の仕事も俺には合ってると思ってるよ。それで、賢治。手帳は?」
「手帳手帳うっせえな! 顔見知りなら要らねえだろ、そんなもん!」
「職務で協力仰ぐなら、顔見知りでも何でも提示が必要。学校で習っただろ?」
「くそ。うぜぇな」
山口さんはポケットに手を入れようとして、そのままドアから飛び出していった。車の発進音。タイヤの軋む音。エンジン音が遠ざかる。
晄くんが私に手を差し伸べる。
その手を取って立ち上がった。
「紋、身支度できたら駐在所に来てくれる?」
「え?」
「被害届、出さないとね。警察を名乗る怪しい男に迫られたって」
「でも」
手帳の提示はなかったけれど、山口さんは警察だ。
修也さんが、悪いことをした警察官として逮捕したのを見た。
「手帳を見せてないなら、少なくとも、今は警察官として来てない。じゃあ、駐在所で待ってるから」
晄くんが出ていく。
玄関前の鏡を見ながら髪をまとめ直して、コートハンガーに引っ掛けてあった上着の袖に腕を通す。
私は修也さんが山口さんを逮捕したところを見ていた。
もしも、山口さんが有罪で、執行猶予期間だったら。
考えたらぞっとした。
山口さんが警察をクビになっている可能性を、頭では把握していた。なのに、捜査に協力してほしいという言葉だけで、私は山口さんを警察として見てしまった。
言われたことを素直に信じてしまう癖。何度も痛い目を見ているのに。
鏡を見る。
シミが増えた。
隠す気力もなくて、日焼け止めとファンデだけで済ませている。
こんな顔を見て、前より綺麗になったなど、見えすいた嘘にもほどがある。
外に出ると、雪が降っていた。
積もらない程度の冷たくて小さな粉雪。吐く息が白い。見上げた空は薄墨色だった。
夕方の時間は驚くほど早く過ぎてもうすぐ夜になってしまう。
北の空を白鳥の群れが飛んでいた。
冬が、来た。
「紋!」
晄くんの声に振り返る。
駐在所の前で、晄くんが手招きしていた。




