第五幕 切り倒された月桂樹の枝を(5)
晄くんがいた。私をまっすぐに見ている。
やつれていた。顔色も良くない。
それでも、晄くんだった。
どうして、こんなところにいるのだろう。
「高城さん!」
渡辺さんが私に気づいた。
晄くんから無理やり目を逸らして、渡辺さんに頭を下げた。
「今日はお世話になります」
「はい! よろしくお願いします」
渡辺さんがいつもの2割増し明るく元気だ。
駐在さんが私を見て挨拶しようとして、ぽん、と手を打つ。
「高城さん、おつかれ。こいつ、今月から駐在所勤務の見習いになった犬塚っていうんだけど」
知っている。
「悪いんだけど、講習会終わったら、こいつ、駐在所まで連れてきてくれない?」
「それは大丈夫ですけど。駐在さん……大嶋さんは?」
「これから病院で、ちょっと何時になるか分からんから」
「そういうことでしたら。終わったら駐在所までお送りします」
「助かる! じゃあ、ゆいぴー、またな」
よほど焦っていたのか、駐在さんが出て行った。
「もしかして、恵美さん、どこか悪いんですか?」
「詳しくは私も聞いてないんです」
渡辺さんが答えた。
晄くんは黙っている。黙って私を見ている。
渡辺さんが腕時計を見て、あ、と声を上げた。
「そろそろ時間なんで! 2人とも中でお待ちください」
「はい」
渡辺さんがばたばたと奥へ走っていくのを、晄くんは黙って眺めていた。
晄くんの雰囲気が違う。私と付き合っていた頃とは別人のよう。
「じゃあ、行きましょうか」
「うん」
晄くんの声がかすれていた。
声も表情も張りがない。
気まずい。
聞きたいことは山ほどあるけれど、聞いていいのか分からない。
会場に入って離れるのも妙かと思い、整列しているパイプ椅子に並んで座った。
見回すと、会場にいるのはほとんど男性だった。1組、母親と男の子がいるだけ。
今年は女性の移住希望者がいなかったのかもしれない。
講習の内容はとても簡単なものだった。
雪かきに必要な道具や、雪を捨てる場所を紹介して、車のタイヤの交換時期、車に積んでおくと良いもの、それをどこで買えるか。
これは初級者向けじゃないな、と思う。
雪の上の歩き方から教えてほしい。
晄くんはどう思っているのか気になって、ちらりと隣を見た。
晄くんの顔が真っ青だった。
「外に出ますか?」
小声で話し掛ける。晄くんが頷いた。
立ち上がり、晄くんの背中を擦りながら会場の外のベンチに座らせる。
晄くんの呼吸は浅く、早い。額は汗で冷たくなっていた。
「病院まで送ります」
「いや、大丈夫」
晄くんはポケットから何かの薬を取り出して、舌に乗せた。
「お水、買ってきます」
手を掴まれて振り返る。
「いい。舌下錠だから。それより、ここにいて?」
仕方なく、隣に腰を下ろす。
晄くんはしばらくうずくまるような姿勢で座っていたが、呼吸が落ち着いてくると顔を上げて私を見た。
「薬、効いてきた」
「何の薬ですか?」
「不安感を紛らわせる薬」
体ではなく、心をやられてやつれたのか。
「講習内容で、何か不安なことがあったんですか?」
尋ねたら、晄くんの頬に弱い苦笑が一瞬浮かぶ。
「講習じゃなくてね。紋のこと、考えてた」
胸の奥が鋭く痛む。
晄くんの口から出る私の名前は、私の中で、まだ特別なものだと思い知らされる。
「講習終わったら、紋に謝ろうって思って。許してもらえなくても、いつか許してもらえるまで、ずっと謝り続けようと思って。それ考えてたら、緊張してきて、このザマ」
晄くんの表情も声も疲れきっていた。
そもそも、晄くんが私に謝らなければならないことなど、何かあっただろうか。
「紋。あの日、ずっと一緒にいたいって言ったのに、いられなくてごめん。お見舞い、行けなくてごめん。しばらく会えないなんて言って、ごめん」
晄くんが口にしたのは、どれも仕方ないことばかり。
私たちは、子どもじゃない。
大人で、組織に組み込まれ、肩書も責任も背負った社会人だ。
全てを捨てて、相手のためだけに行動することは許されない立場だった。
「うん。大丈夫。怒ってないです」
本当だった。
辛くて悲しかったけど、晄くんが悪いなんて一度も思わなかった。
「紋。もう一度、俺と付き合ってください。今度は間違えないから」
予想外の言葉に、返事が出なかった。
「少し、時間をください」
ゆっくり時間をかけて出した答えがそれだった。
「考える時間をください」
「うん。いくらでも」
ふぅ、と晄くんが大きなため息をつく。
「でも、口調は戻して? ちょっと傷つく。できたら、名前も呼んでほしい」
「いいの?」
「もちろん」
晄くんが微かに笑みを浮かべる。
やつれた顔。
さっき背中を擦ったときも、背骨が数えられそうなほど筋肉も脂肪もなかった。
こんなにやつれていても、警察官として働こうとする。大丈夫なのだろうか。倒れたりしないだろうか。
「住んでるのは、寮なんですか?」
この辺りに寮らしき建物は見当たらない。
「駐在所の隣の空き家。県警が借り上げてくれた」
確かにかなり古く大きな日本家屋が空き家になっていた。
「あの家、電気とか水道とか接続されてるの?」
そう思うほど、立派な歴史的建造物だった。
「うん。電気も水道もあるよ。離れには」
「母屋は?」
「トイレは汲み取り式だった。台所はかまどで、風呂は五右衛門風呂。井戸はあるけど飲み水にはできないって」
取り壊して更地にすればいいのだろうが、お金がかかるからできないのだろう。
世知辛い。
あの家は門構えが立派で、門の脇の小さな戸口を入ると、ぽつんと小屋がある。
重厚な母屋は門の向こうに瓦屋根が見えているだけだ。
門は開きっぱなしになっていたので、最初に見たときは寺だと思った。
「ご近所さんだ」
ここ数日、配送の仕事が多く、日中は家を空けていたから引っ越しがあったことも知らなかった。
「うん。早く紋に会えてよかった」
「私の住所知ってて、ここに来たんじゃないの?」
「市内にいるのは市の広報誌で分かったけど、住所は知らなかったから休みの日に探すつもりだった。公園の近くなら、紋も来ると思って」
考え方が合理的だ。
市内でも何か所かある白鳥の越冬地。
ライブカメラは駐在所から一番近い公園にあって、私が見ていた映像もあの公園を写したものだった。
やつれて、疲れていても、晄くんの頭脳は働いている。
頭は動くのに体がついてこない。
頭も体も動かなかった私よりも、もっと辛い思いをしていた人がここにいた。
「うん。白鳥が来たら、毎日見に行くつもり」
「そっか」
顔を見合わせて苦笑した。




