第五幕 切り倒された月桂樹の枝を(3)
元々、機能不全の家庭だった。
父は兄にしか興味がなく、母は妹にべったりで、物心つく頃には半ば放置されていた。
小学生の頃、日が暮れても帰ろうとしない俺を家に連れていくのは、近所の交番に勤めていた若い警察官だった。
一度だけ、彼にがつんと叱られた。
それからは何か嫌なことがあると交番に行った。
相談することもあったし、黙って座っているだけのこともあった。
その人の側にいるだけで安心した。
いつか俺もそんな警察官になりたいと思うようになっていた。
中学の卒業アルバムに載せる作文にも、将来の夢には交番勤務の警察官と書いた。
その後の俺は、大したトラブルもなく親の金で大学まで行かせてもらい、そのまま警察官になった。
最初の交番勤務研修で、先輩から適性なしと言われるまで、大きな挫折の経験もなかった。
その先輩の言葉を真正面から受け取って、刑事試験に挑戦したら通ってしまった。
そこで初めて、その先輩が何人もの新人を潰し、届けられた落とし物を自分の懐に入れていることを知った。
俺が最初に逮捕したのは身内だった。
本庁から声が掛かったことに便乗して、居づらくなった県警から逃げた。
正しいことをした。
なのにどうしてこんなに後悔しているのか。
そんなことを俺は酒の席で修也にこぼした。
「正しくあることはいつだって苦しいもんだよ。正義をとるってことは、正義以外のものを切り捨ててるんだから」
修也の言葉に納得した。
要するに俺は、切り捨てる覚悟ができていない、ただの若造だったわけだ。
捨てる覚悟は、なかなかできなかった。
そのうち、仕事と感情を切り分けることを覚えた。
身を切るような思いを何度もした。
憎まれることも仕事のうちだと自分に言い聞かせるようにして、30歳になった。
夜中の2時。
悲鳴のような声で母から電話が掛かってきた。
「さっちゃんが息をしてないの!」
「救急車は?」
「そんな、無理」
「無理じゃない! すぐに救急車呼んで! 交代来たらすぐに帰るから」
夜番だった。
朝番で出勤してきた同僚に引き継ぎをして、すぐに実家に向かった。
最初に目についたのは2階の廊下の手すりからぶら下がっている母だった。首を吊っていた。
2階から引き上げようとして、死後硬直が始まっていることに気づく。引き上げることを諦めた。
開いていた扉から妹の部屋に入る。
ベッドの上に横たわる妹。その顔を見れば、何もかも手遅れなことは明白だった。
部屋中に散らばった錠剤。蓋の開いた薬の瓶。
110番通報してから、ぼんやりと妹を見ていた。
妹のオーバードーズは十代から始まっていた。通院治療もしていたはずだ。
治療は上手くいっていなかったのか。
最後に妹と会話をしたのはいつだっただろう。
ふと、妹が何かを握りしめていることに気づいた。
無理やり手を開かせる。小さな袋の中に白い粉が入っている。
急いで部屋を見回した。散らばっているのは全て市販薬と処方箋薬。何の薬物か分からない袋を自分のポケットにねじ込んで、妹の手を擦った。脈打つような頭痛に吐き気がした。
もしもこれが違法薬物なら、単純所持でも犯罪だ。
なぜ妹がこんなものを持っているのか。
いつ、どこで、誰から手に入れたのか。
それを調べるべきだ。
頭では分かっていても、体が先に動いた。
それは、妹が犯罪者だと思いたくなかったからなのか。それとも、俺自身の保身のためだったのか。
通報を受けて一番に乗り込んできたのは、顔見知りの刑事だった。
その後のことはよく覚えていない。
次に記憶がはっきりしているのは、葬儀の直前。
来たばかりの父に、「家族のことはおまえに任せると言っただろう」と殴られた。
そんなことを言われた覚えがなかったから、違和感があった。
母の棺に縋りついて泣いている兄の姿にも、違和感しかなかった。
兄も、父も、そこまで家族を思いやっていただろうか。気にかけていただろうか。
二人とも何度電話を掛けても繋がらなくて、結局葬儀の前日に、葬儀場を伝えることしかできなかった。
母の携帯の発信履歴には、父の携帯番号はなかったと聞いた。
家族としてだけでなく、夫婦としても終わっていたのだと知った。
葬儀から半年後。
兄が、実家は更地にして自分の家を建てると言い出した。反対はしなかった。
妹が握りしめていた袋の中身は、家を取り壊す前日に庭に撒いた。袋はタバコの包装と一緒にコンビニのゴミ箱に捨てた。
父が再婚した。新しく弟と妹ができたらしいが、一度も会っていない。顔を合わせるとしたら、父が俺より先に死んだときになるだろう。
それからは根無し草になった。
帰る場所も行く場所もなく、職場と寮の往復をするだけ。
たまに修也たちと酒を飲む。
兄が結婚したときも、賢治が結婚したときも、二次会の途中で招集がかかり、退席した。
そんなことを続けているうちに年をとっていくものだと思っていた。
紋に出会った。
一目惚れだった。あの瞬間から世界が変わった。
凛と一人で立っている紋のことを、素直に美しいと思った。
鷲尾商事の事件さえなければ、紋を愛でて、甘やかして、囲い込んで、ただ愛しているとだけ伝えていたはずだ。
紋の手を放したとき、必ずもう一度会いに行こうと思った。だから「しばらく会えなくなる」と言った。
もしも紋が許してくれるなら、次こそ何があっても手放さないでいようと思っていた。
だが、ぼろぼろになって病院のベッドに横たわる紋を見て、俺は逃げた。
紋には、もっとふさわしい男がいる。
俺のように傷つける人間などいらない。
紋は、俺と会うべきじゃない。
そんな綺麗事で逃げようとした。
怖かった。
母と妹の死に顔が瞼の裏にちらついた。2人とも苦しみ抜いた末の死だった。
刑事として、何体もの仏を見てきた。安らかな死など一つもなかった。
もしも、それが紋だったら。
悪夢で夜中に飛び起きるようになった。
俺の知らないところで、鷲尾商事の事件は二転三転していた。
社長への怨恨、社員同士の足の引っ張り合い、横領、情報漏洩。
問題が次々に出てきたらしい。
捜査は長引いて、応援に出している澤村と藤原もなかなか一課に戻ってこれなかった。
捜査から外れた俺には情報らしい情報も入らなかったが、澤村に頼まれて一度だけ、竹乃屋という飲み屋に桑野と飲みに行った。
紋が澤村に、疑問という形で言ったらしい。
幹事は本当に、会社の飲み会として店を予約をしていたのか、と。
予約はあった。澤村が聞き取った鷲尾商事の社員と同じ名前だ。
ただし、人数は5人。
当日は男性が2人、女性が3人で来たという。
全員、雰囲気がお通夜のようだったと店員が言った。
紋が何に気づいたのか分からず、澤村が頭を抱えていた。
警察にとっては小さなこと。紋にとっては大きなことだ。
その幹事は最初から、紋の退職が順調にいかないことを分かっていた。おそらく、刑事の誰かに情報を提供していた人物。
紋はその幹事が警察に情報を渡していたと気づいた。
そこから導き出されるのは、その幹事は紋と親しかったという事実。
紋がシロなら、幹事もシロ。それが言いたかっただけだろう。
澤村には伝えなかった。
裏取りをしていけば辿り着く結論だ。捜査から外れた人間から言うことでもない。




