第五幕 切り倒された月桂樹の枝を(1)
次の日は寝坊した。
予定もないので構わないが少し罪悪感がある。
ゆっくりと体を起こして、配送の仕事をしばらく休む連絡を入れる。
昨夜、指が攣った時点で分かっていたが、物が握れない。学生時代に何度か経験しているが今回は酷い。
ハンドルを握るだけなら誤魔化せても、お客さまの荷物を取り扱うことは怖くてできない。取り落としたらシャレにならない。
しばらく怒鳴られなくて済む理由ができると少し心が軽くなった。
憂いが減るとお腹も減る。
乾パンの蓋を苦労して開けると、もうすぐなくなってしまうことに気付いた。
固いものを齧り続けていたせいか、急にふわふわのパンが食べたくなった。炊飯器の横に置いていたホームベーカリーの電源を入れた。
東京にいた頃、月に一度だけ、これで食パンを焼いていた。
ホームベーカリーは分量さえ間違えなければ必ず美味しいパンを焼いてくれる。
焼き立ての美味しいパンは私の好物だ。
掃除、洗濯、片付け。やることは色々あるが、手が痛くて何もやる気にならない。
スマホでダンゴムシの退治方法を検索する。
家庭菜園をしている人のブログを見つけて読み始める。
ダンゴムシに始まり、数々の害虫。
それを狙ってきたアシナガバチが軒下に巣を作り、更にその巣を狙ってスズメバチが来る。
この世の地獄が訪れたところで、嫌になってブログを閉じた。
ハチの巣忌避剤は買うとして、結局どうすれば虫と戦わずに済むか分からなかった。
解決策がなくて参ってしまう。
この辺りは田んぼや畑ばかりで、家庭菜園などというぬるい野菜作りはしていない。本職の野菜畑は肥料も農薬もしっかり使う。病害虫は収入に直結するから対策も本格的だ。
家のチャイムが鳴った。
何だろう、とインターホンを見る。玄関に駐在さんがいた。
「こんにちは〜。駐在です」
「こんにちは。どうかされましたか?」
「こんにちは! 駐在の妻です!」
駐在さんの後ろから、可愛らしい人が顔を出す。
「こんにちは」
「凄くいい匂いがするんですけど! 何してるんですか?」
「今、ホームベーカリーでパンを焼いていて」
「パン! 食べたいです!」
びっくりした。
この世の中に、こんなにストレートに自分の欲求を初対面の人間に向かって出してくるなんて。
タイミングよくパンが焼けてしまった。
駐在さんの奥さんがきらきらした目でこちらを見る。諦めてスリッパを出した。
「中へどうぞ。散らかってますけど」
「お邪魔します!」
「じゃあ、俺は駐在所に戻ってるんで」
駐在さんは何をしに来たのか分からない。
奥さんだけをダイニングに通す。リビングには椅子もソファもない。
「コーヒー、飲みますか?」
「あ、私、今カフェインだめなんで」
「オレンジジュースと、牛乳ならありますけど」
「オレンジジュースで!」
物怖じしない人だった。
「私、大嶋 恵美です。高城さん、下のお名前は?」
「紋です」
グラスにオレンジジュースを注いで出す。
焼き立てのパンは切りにくい。厚切りにして、一口でつまめるサイズに苦労して切り分ける。腱鞘炎が邪魔だ。
「どうぞ」
「いただきます!」
恵美さんは早速つまんで、口に入れた。ゆっくり噛みしめるようにして飲み込む。
「食べられる!」
ぱっと顔が輝いた。
もう一つ、口に入れて食べる。嬉しそうだ。
「私、今、妊娠してるの。悪阻があって、今まで大好きだったお米が食べられなくて」
大好きなものが食べられなくなるのは辛そうだ。
しかもカフェインを禁止されると、コーヒーどころか緑茶やほうじ茶も飲めなくなる。
「ほら、ここって米どころでしょう? パンを食べる習慣がなくて、思いつかなかったのよねえ」
「恵美さんは、この辺りのご出身ですか?」
「うん。大学だけ東京だったけど、それ以外はずっと県内」
何だか不思議な感じがした。
同じ土地にずっといるというのは、どんな感覚なのだろう。
「大学の頃はね、こんな田舎絶対に出ていってやるって思ってたんだけど、都会は4年だけで満足しちゃった」
「そうだったんですね」
「紋ちゃん、こっちはどう? 少しは慣れた?」
私は苦笑して首を横に振る。
「分からないことがあったら何でも聞いてね」
言いながら、恵美さんの手は止まらず、パンはどんどん消費されていく。
お腹が空いているのに食べられないのは辛かっただろう。個人差はあるようだから、恵美さんがどれだけ食べられなかったのかは分からないけれど。
「本当に聞いてね! 嫌なことあったら私に言って。ちゃんと解決するから」
「はい」
恵美さんはそこで、ふぅ、と息をつく。
「前の移住希望の人、奥さんと2人で来たんだけど、2人とも馴染めなかったみたいで。その奥さん、ここから出ていく前によくピアノ弾いてたから、昨日から気になっちゃって」
「すみません、うるさかったですよね? 時間気にせず弾いてしまってすみません」
「いいのいいの! 小さな音だったし! うちは、ほら、道路挟んで向こうだからはっきりとは聞こえなかったんだけど、朝から夜までずっと聞こえてたみたいだから、いつご飯食べてるのか気になって」
気遣いのできる人なのだと思う。
「って、気付いたのは旦那なんだけどね。向かいの駐在所。扉とか開けっ放しだから」
「なるほど」
「虫入ってくるからできるだけ閉めるんだけど、気付いたら開いてるのよね」
それはホラーだ。
「近所の子供がやってるんだと思うけど」
「子供ですか」
生活時間が被らないのか、あまり姿を見た記憶がない。
「紋ちゃんって、1月頃に白鳥見に来てた?」
「はい」
「やっぱり!」
恵美さんは嬉しそうに顔を輝かせる。
「何件も連絡がきてたんだよ。思い詰めた顔の若い女がいるとか、今にも入水自殺しそうとか」
力なく笑う。
「だから、ここに住むことを決めてくれたの、凄く嬉しかったの。若い子、あんまりいないから」
「あんまり若くないですけど」
「若いって! 二十代でしょ?」
「いえ、31です」
「ごめん、二十代だと思ってた。私、35」
つやつやのお肌がそれこそ20代のようだ。
「恵美さんこそ二十代かと。お肌つやつやだし」
「肌はね。あんまりお化粧しないから負担が少ないのかな」
恵美さんが私をじっと見た。
「紋ちゃん。紋ちゃんは、お見合いとか興味ある?」
「ありません」
「だよね。ごめん、変なこと聞いて」
「いえ。あの、私からも、変なこと聞いていいですか?」
「もちろん! 何でも聞いて?」
「ダンゴムシって、どうしてますか?」
「……ダンゴムシ?」
「すみません、何でもないです」
「……ああ! 庭にいるの?」
「はい」
「ちょっと見てもいい?」
私は恵美さんを連れて庭に出た。
「うわっ! 結構いるね」
「私、虫が苦手で。どうやったら駆除できるのかって」
「燃やそう」
「え?」
「燃やして、土に返す」
「燃やすって、どうやって?」
「ちょっと待ってて」
庭から出て行った恵美さんは塵取りとほうきを持っていた。
「大丈夫! ダンゴムシは刺さないから! こうやって、ざーっと集めて塵取りに入れて。こっち来て!」
恵美さんの後ろをついていく。
駐在所の隣の空き地に、レンガでロの字に区切ってあるスペースがあった。
恵美さんはそこに塵取りの中身を落とした。塵取りを軽く叩くとばらばらと丸い玉が落ちる。
「そして、マッチ!」
恵美さんはポケットからマッチを取り出す。火を付けて、レンガの囲いの中に落とした。
「うーん。単体じゃ燃えないか。紋ちゃん、駐在所から新聞紙取ってきて」
駐在さんに新聞紙を分けてもらい、恵美さんに渡す。
マッチで新聞紙の端に火を付けると、マッチごと囲いの中に落とした。
煙が目に痛い。
「ここね、灰を集めてるところ。畑にすき込んだりする人が持っていくから、簡単に燃やせるものはここに入れて燃やしとくの」
「いいんですか?」
恵美さんは、ふっと悪役っぽく笑う。
「環境的にはよくないよね〜。でも、実際、この辺りはゴミ収集あんまり来なくてね。自治会が役所に掛け合って、町の中でも決められた場所だけ許してもらってる。まあ、自分の土地だからって勝手に焼いてる人もいるけど」
「コンポストは」
「あれ、すぐだめになるから、私は使わないなあ。だいたい、ここで燃やしてる。見られたくない紙ゴミとかと一緒に」
行政の人が泣きそうだ。
ふと顔を上げた恵美さんが車に気づいて、大きく手を振る。
「ゆいぴー!」
車が1台、目の前に止まった。




