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第四幕 甘い夢は闇夜に溶ける(8)


 貯金を切り崩しながらの生活が始まった。


 3日に一度くらいは、配送の仕事が入った。

 引き受けてみて気付いたが、回された時点で配送希望時間に間に合わないものばかりだった。


 これならもっと金額を高く設定しておけばよかった。


 引き受けてすぐ配送先に電話を掛けて謝り、配送中に催促の電話が来て怒鳴られ、配送先に着いてからも怒鳴られて、謝りまくる。

 謝ることに慣れているとはいえ、怒鳴られるのは辛い。

 配送の仕事がある日は、帰ってきたらくたくたで、他に何もする気にならなかったりする。

 そんな日は買い込んだカップ麺を消費する。


 土地付きの戸建て。車二台分の駐車スペースの他に、小さい庭がある。

 夏が本格的に来る前に、と雑草抜きに精を出す。

 ドクダミが大量に取れた。残念ながら加工方法を知らないので、これはゴミだ。

 ここでは生ゴミの回収が行われない。各家に1台、家庭用コンポストというものが配られる。

 生ゴミを分解して土にしてくれる。野菜や花を育てることに適した土になる。

 匂いがこもったり虫が湧いたりしたら、取り替えてくれるらしい。


 ドクダミを抜いて、さっぱりした庭に、昨日ホームセンターで買ってきたマリーゴールドの苗を植えた。

 小さな黄色の花が可愛い。蕾もたくさんついているから、きっと来週あたり可愛い庭になっているだろう。

 トマトの苗とじゃがいもの苗も買ってきた。

 こちらは、トマトの土の袋と、じゃがいもの土の袋の上側を開けてそのまま入れた。

 袋の底に幾つか穴を開けて、庭の片隅に放置する。

 野菜に適した土はまだコンポストの中にできていないので土を買ってきたのだが、ホームセンターのおじさんが教えてくれた育て方だった。

 1人で世話をするのなら、これくらいがちょうどいいそうだ。

 水やりの頻度は、表面の土が乾いたら、と苗の説明書にあったがよく分からない。

 残っている雑草を引き抜いて、自生しているのか、植えたのか分からない木を見る。

 何の木だろう。枝を切ったりしたほうがいいのか。隣は空き家だが、急に人が入ったら絶対に文句を言われそうな生い茂り方をしている。


 隣が空き家じゃなくなってから考えよう。


 携帯が鳴る。

 また間に合わない配送の依頼だった。

 配送先に連絡して怒鳴られ、運送会社に来るのが遅いと怒られ、配送先から催促の電話がきて謝り、あろうことか、道を間違えて更に遅延し、配送先にいつもの2倍怒鳴られた。


 やっていられない。

 配送の仕事はいっそ辞めてしまおうか、と頭をよぎる。


 私はいつからこんなに簡単に諦めるようになったのだろう。

 東京にいた頃は何が何でも食らいついていく気概があった。

 学生の頃も。子どもの頃も。

 環境が変わっても、上手くいかなくても、泣きながらでも踏ん張ってきたのに。


 玄関の明かりをつけた。

 広い玄関と廊下。


 古い家電は家電販売店に、家具と食器類はリサイクルセンターに引き渡した。引き取ってもらえなかったものは、自分で粗大ゴミセンターに持ち込んだ。

 ピアノ以外は全て片付けた。


 頑張った、と思ってもいいだろうか。家を家らしく整えただけでも、頑張ったと言っていいだろうか。


 賞味期限の切れた乾パンを食べる。

 処分した戸棚の奥から出てきた。他の食べ物はコンポストへ投入したが、これはまだ食べられそうだと思ってしまい、少しずつ食べている。牛乳を温めて飲み、シャワーを浴びて寝た。


 翌朝。

 空腹で目が覚めた。

 お腹が空いたのも久しぶりだ。

 着替えてから、外へ出た。トマトとじゃがいもの苗に水をやって、何か分からない庭木にも水をやって、マリーゴールドに目をやる。


「は?」


 思わず声が出た。

 花がぽとぽとと地面に落ちていた。

 葉っぱもない。茎だけが地面から伸びている。


 花に何かの虫が集っている。よく見て、飛び退いた。

 大量のダンゴムシだった。

 無理、と判断して家に逃げ帰った。


 田舎無理。虫いっぱい。忘れていた。

 私は虫が嫌いだ。蜘蛛など見るだけでぞわぞわする。


 本格的な夏が来る前に撤退するかもしれない。

 虫は本当に無理。


 水を飲んで一息つく。

 落ち着いてきた。


 ため息をついて乾パンを齧る。牛乳を温めながら考える。あれは、どうすればいいのだろう。駆逐できるのだろうか。

 姿を思い出しそうになって頭を振る。


 1日放っておいたらいなくなったりしないだろうか。


 ドクダミはあれだけ生い茂っていたのに、ダンゴムシはドクダミは食べないのだろうか。


 頭を振る。

 どうしてもぞわぞわする映像を思い出してしまう。


 リセットしなくては。


 リビングのピアノが目についた。

 古い家具や家電が片付いてやっと調律師さんを呼ぶことができた。


 温めた牛乳で落ち着いてから、手を洗い、ピアノの蓋を開けた。屋根の部分を少しだけ開ける。


 音階練習。ハ長調。イ短調。運指は覚えている。でも、十年ぶりのピアノの鍵盤は重い。ヘ長調。ニ短調。指が絡まる。もどかしい。速度を落として、一音の大きさを揃えるように、丁寧に1つずつ鍵盤を叩く。

 運指の練習曲。これも全ての調性でゆっくりと弾いた。次は少しだけ早く。その次はまたもう少し早く。


 指が攣った。

 深呼吸しながらゆっくりと握り込んで、無理のない程度に広げる。


 ピアノは母に教わった。

 同じピアノで弾いているのに、まるで違う楽器のように音が違う。母のような綺麗な音で弾きたくて、泣きながら練習した。目の前にきらきらした音で運指の練習曲を弾いてしまう人がいるのだ。曲のせいにできなかった。

 でも、誰よりも早く私を見限ったのは母だった。


『あなたはピアニストには向かない』


 そうはっきりと言われたのは、いくつの時だったか。

 ピアニストになりたいわけではなかった。

 ただ、母に振り向いてもらえるのが、ピアノのレッスンをつけてもらうときだけだったから、必死に練習していただけ。

 なのに、母にそう告げられたとき、私は泣いた。

 泣いた私を、母はピアノ部屋から追い出して、自分の練習を始めた。


 ピアノを愛した人だった。何よりもピアノを優先する人だった。

 だから『ショパンを弾かない高城 弥生はピアニストとして二流である』と酷評されたとき、母は病んだ。ショパンの曲を弾くためにあちこちのピアニストに師事して学び直して、リサイタルで披露した。そして、『聴けたものではない』と評価された。

 それでも2年先までリサイタルの予定が詰まっていた。

 無理をして舞台で演奏を続けた高城 弥生は、最後のリサイタルでアンコール曲にショパンの葬送行進曲を選んだ。その夜、家に帰ってきてから、彼女は首を吊って死んだ。

 母の最後の2年間は、頭の奥から聞こえてくる嘲笑の声との戦いだった。ろくに眠れず、一晩中ピアノを弾き続けた日もあれば、大声で叫び続けた夜もあった。


 窓の外を見る。

 丸い月が、暗闇の中に浮かんでいた。

 もう一度、ピアノの鍵盤に向かう。月を眺めながら、ドビュッシーのピアノ曲を弾いた。高城 弥生が得意だった近代の作曲家の有名な曲。

 彼女が弾く『月の光』は、光の粒が夜の湖面に振り注ぐようなきらきらした曲だった。二度と聴けないあの音を、ピアノ線から響く空気の振動を、空っぽの私の中に押し込めたい。


 カーテンを閉める前に、もう一度、月を見た。


 2年間だけ、踏ん張ってみよう。

 2年後、どうしたいか考えて、結論はそれからでも遅くない。


 シャワーを浴びるためにリビングの明かりを消した。

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