第四幕 甘い夢は闇夜に溶ける(3)
山口さんの手を背中側で捻り上げながら、修也さんが静かに言った。
「公務執行妨害だ。黙秘権云々は知ってるよな?」
修也さんの声と同時に小さな金属音。
「手錠?! なんで生安が」
「警視庁公安部所属、新山です。生活安全課は兼務」
修也さんが取り出した警察手帳は、晄くんと澤村さんから見せられた手帳と少しデザインが違う。
「修也が、公安部?」
「俺、前から言ってたよな? やり過ぎだって」
「兼務なんて聞いてねえぞ?!」
「うちは、言えないことが多いんだよ」
修也さんの小さな小さな声は、晄くんが私に謝ったときの弱い声によく似ていた。
修也さんも揺れている。晄くんも。
正義と、仕事と、心の間で。
「山口 賢治さん、あなたに違法捜査の嫌疑がかかっています。同行願います」
全ては理解できない。ただ、目の前で、取り返しのつかないことが起こっている気がした。
隣の美羽ちゃんを見る。
呼吸が荒い。思わず手を伸ばして美羽ちゃんの手を握る。美羽ちゃんが、はっとしてこちらを見た。
泣きそうな顔をしていた。
後輩を指導するときに、いつも一番に言うことがある。
『会社の中で涙を見せるな。泣くならトイレで泣け』
異常事態でもここは会社の中で、泣いていい場所じゃない。
美羽ちゃんは、私がどれだけ厳しいかリリちゃんから聞いているだろう。トイレや食堂で陰口を言われていたことも知っている。
美羽ちゃんは深く頷いて、姿勢を正した。私も美羽ちゃんの手を離して座り直す。
私の頭痛と吐き気は酷くなる一方だ。この、いつもとは違う、変な吐き気は何だろう。
「あなたに騙されたという届が数件届いています」
「俺は情報取るためにしかやってない!」
「情報取るためにも、騙したり嘘ついたりはやっちゃいけないんだよ」
「晄はそこの高城 紋から情報取ってたじゃねえか」
「取ってない」
晄くんが即座に否定した。
工藤さんと西畑さんの視線が、私に向くのが分かった。
「一課の要請でガサ入れが変わったって」
「二課長に聞け」
「そうするよ。悪いな、晄。こいつ、連れてくわ」
「ああ」
晄くんが修也さんに頷いた。
晄くんと修也さんの顔を見て、2人の間に、少しの空気のズレがあるの感じた。
きっと晄くんも、修也さんの本当の所属は知らなかった。修也さんは、仕事のために隠していた。仕事のために隠されていたことを、晄くんは今、飲み込んで、納得しようとしている。
修也さんは山口さんが付けていたイヤホンと無線機を外して、晄くんに手渡した。
修也さんがこちらを見る。修也さんの視線はまっすぐに美羽ちゃんだけを見ていた。
「須賀さん。大変不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。私たちはあなたの勇気ある告発を無駄にしません。だから、どうか、その強い心を忘れないでください。失礼します」
修也さんは頭を下げて、山口さんを引きずるように会議室を出ていった。
ピピ、と小さな電子音がした。
工藤さんのパソコンだった。
晄くんが黙ってUSBメモリを抜いた。
工藤さんが私を見た。
責める視線が肌に突き刺さる。
「高城さん、会社を、売ったんですか?」
『会社を』が『私たちを』に聞こえた。
違う、と言いたかった。
言葉が出なかった。
「工藤係長が、今日、警察が会社に来たことをおっしゃっているのなら、高城さんは無関係ですよ」
手にした無線機を澤村さんに渡しながら、晄くんが言った。
「二課はかなり前から鷲尾商事周辺の金回りを追っていました」
「でも、さっきの刑事さんは」
「俺が高城さんと出会ったのはここ一か月の話です。ところで工藤係長。総務部ならここ十年の金回り、それから人事と備品の購入のデータなんかの場所、分かりますよね? どこですか?」
「備品のデータは地下の倉庫に。経費のデータも、地下です。人事関係は分かりません」
「ありがとうございます」
「あの」
私が手を挙げると、晄くんがこちらを見る。
「トイレに行っても?」
「どうぞ。鞄や携帯は置いていってください」
鞄からハンカチだけ取り出すと立ち上がる。
ぐらりと体が揺れた。
引っ張られた方向に倒れ込む。
微かなタバコの匂い。
晄くんだ。
「紋さん!」
美羽ちゃんの悲鳴。
「すみません、吐きそうで」
目を開ける。晄くんの顔が近くに見えた。
喉の奥から、せり上がってくる気持ち悪いものを、ハンカチに吐き出した。
「きゃあっ」
工藤さんの叫び声が遠くに聞こえる。
「澤村さん、救急車を呼んでください。三十代女性、吐血あり、意識低下、脈拍、呼吸あり」
「はい」
「こちら、8階会議室、女性警官1名、応援願います」
抱き締めてくれる温かい手に安心して、体の力を抜いた。
目を開ける。
ぼんやりと見上げていると、知らない女性がこちらを覗き込んだ。
「高城さん?」
「はい」
返事をした。
女性は少し首を傾げて、少し大きな声を出した。
「高城 紋さん。ここがどこか分かりますか?」
一語一句、区切るように言われて、辺りを見回す。
知らない場所だった。
「分かりません。どこですか?」
自分の声が自分の声ではないみたいだった。かすれて、聞き取りにくい。
「病院です。高城さんは、会社の会議室で倒れて、救急車で運ばれたんですよ」
そうだ。倒れそうになって、晄くんに抱き留められた。そこからは覚えていない。
「ご迷惑をおかけしました」
「謝罪するのはこちらのほうです。急性の胃潰瘍だそうです。高城さんのストレスも考慮に入れなくてはいけなかったのに、無理をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
やたらと胃が痛いと思ったのは、胃潰瘍だったのか。痛いはずだ。
考えてみたら、杉山さんの件から仕事ではずっとストレスを抱えてばかりだった。
「本当は色々話を聞いて来いと言われているんですが、日を改めます。看護師さん、呼びますね」
女性は手を伸ばしてボタンを押した。
頭上のスピーカーから女性の「どうされました?」という声が降ってきた。
「高城さん、目が覚めたみたいです」
「分かりました。すぐ行きます」
女性が立ち上がる。警察手帳を見せられた。
「警視庁刑事部捜査二課、小谷と申します。高城さんの着替えと鞄はここに置いておきますね。また来ます。どうぞお大事に。失礼します」
「はい。ありがとうございました。お疲れ様です」
それだけ答えると、小谷さんは苦笑して出て行った。
看護師さんが入ってくる。
点滴のパックを変えながら何か話してくれていたけれど、どうしようもなく眠くて、途中で眠ってしまった。




