第四幕 甘い夢は闇夜に溶ける(1)
「両手は机の上に置いて、何も触らないでください」
大きく開け放たれた扉のところで立っていたのは晄くんだった。
顔の横で広げていた手帳を、ぱたん、と音を立ててポケットにしまう。慣れた仕草だった。
西畑さんの業務用携帯が鳴った。椅子から飛び上がりそうになる。
「す、すみません、電話に出てもいいでしょうか?」
上擦った声で西畑さんが晄くんを見た。
「折り返すと伝えてすぐに切ってください」
「はい。お待たせしました、鷲尾商事、西畑です。申し訳ありません、打ち合わせで、終わりましたらこちらからお電話いたしますので。はい。はい、申し訳ありません。失礼します」
西畑さんの早口の電話の様子を、晄くんは無表情に見ていた。
電話を切った西畑さんに向かって、晄くんは冷たい目のまま告げた。
「ご協力感謝します。携帯も机に置いてください。そちらのお2人も。業務用携帯と、個人用もお持ちでしたら机に置いてください」
指示に従う。
晄くんは私たちから視線を逸らさずに口元を手で隠した。
「こちら犬塚。8階北側第6会議室、女性含め3名。築島さん、状況報告」
よく見ると、片耳にイヤホンを挿していた。口元を隠す手から、黒い箱のようなものが見えた。
警察は今でも無線を使うんだな、とぼんやり晄くんを見ていた。
「了解。桑野さん、状況報告」
工藤さんが、あ、と小さく声を上げた。
工藤さんのパソコンの画面で、新たなバグが発見された表示が出ている。
また1つ、仕事が増えた。
晄くんの無線のやり取りは続いている。
「了解。二課長、こちら一課犬塚、状況報告よろしいですか? 8階把握完了、企画部と総務部業務支援課。稼働中のパソコンは46台」
私の耳が46、という数字を拾った。
それなら、企画部と業務支援課は全員在席だ。
隣から、工藤さんの鋭い視線を感じる。
何気ない話をしたつもりだった。
けれど、今夜、飲み会があることを確認した私は、充分に怪しく見えるだろう。
工藤さんからしたら、私が警察に伝えるために、普段は外回りが多い企画営業係も今日は社内に居ることを確認したようにしか見えない。
――警察は、人が多いこの日を、狙った。
飲み会の予定を晄くんに話した私の、情報漏洩になる。
胃が、痛い。
晄くんはこれがあることを知っていたから、急いで私との関係を切った。
じゃあ、出会いは?
私と関係を持ったのも、情報を得るためだった?
「確認して報告します。築島さん、桑野さん、こちら犬塚。課長以上の権限のついたパソコンの台数を確認して報告願います」
晄くんは扉を開け放したまま固定できることを確認すると、机に近付いて来た。
「申し遅れました。警視庁刑事部捜査一課、係長、犬塚です。お1人ずつ、所属と役職、お名前をお願いします」
「所属は、企画部企画開発係、係長の、西畑です」
「総務部業務支援課業務改善係、係長、工藤です」
「総務部業務支援課課長兼務企画部企画課課長、高城です」
前の2人に続いて答えた。
「ありがとうございます。課長権限のついたパソコンをお使いなのは、高城さんだけですか?」
「いえ、西畑さんと工藤さんのパソコンにもついています」
「権限の付与は人事の仕事ですか?」
「課長権限があれば、誰でもできます」
「分かりました。すみませんが、まだパソコンには触らないでください」
晄くんの目は揺れていない。仕事をしているときの顔は、こんなにも冷たくて怖い。
私の知っている晄くんとは別人みたいだった。
私に見せてくれた雪解けのような笑みは、演技だったのか。それとも、本気だったのか。
体の中心から冷たさがじわじわと体に染みてくる。
「はい、犬塚」
晄くんはまた、無線でやり取りしている。
向かい側に座っている西畑さんと目が合った。
課長権限の付与は、引継ぎに必要だから仕方ない。
けれど、それが人事部でなくてもできるということを口にしたのは、話し過ぎだっただろうか。
ただ、ログを調べられたら私が付与したことはすぐに分かる。
黙っていたのがバレたら、理由を追及される。
どうして警察がこの会社に踏み込んだのかが分からないままで、下手なことはしないほうがいい。
何が正解か分からない。
状況に思考が、追いつかない。
「二課長、犬塚です。報告よろしいですか? 8階、課長以上の権限付きパソコンは全部で5台。企画部に2台、会議室に3台です」
晄くんが私を見た。
「分かりました。桑野さん、犬塚です。澤村さんに会議室に来るように伝えてください。桑野さんはそのまま待機願います」
晄くんが私の隣に来て、膝をついた。目線の高さが同じになる。
「高城さん、今日は有給休暇のはずですが、パソコンを使っているということは仕事をしていることになります。今日の出勤は、上長の許可を得ていますか?」
「いえ、無許可です」
「俺たちは労基じゃない。でも、無許可で出勤したことで、紋に対して聴取が厳しくなるかもしれない。守りきれなくて、ごめん」
ずきずきと胃が痛い。
首を横に振る。
全部、本当だった。
今朝、修也さんが言っていたように。
晄くんは、本気で私の恋人だった。




