第三幕 仮面を付けた道化師たち(6)
左足のヒールが折れていた。
立ち上がった時に、膝が鈍く痛んだ。
肩で息をしながら、顔を上げる。
神社の赤い鳥居が目の前にあった。
両足とも靴を脱いで手に持つ。鳥居をくぐって中に入る。とても静かだった。風が木の葉を揺らす音が聞こえた。
すぐ傍にベンチがあったので座らせてもらう。
スカートを少しめくると、膝から血が出ていた。
顔をしかめる。見てしまったせいで余計に痛みを感じる。
大きなため息が出た。
ゆっくり息を吸う。
散々だ。
でも、よかった。
晄くんを好きになってよかった。
短い間だったけど、きっと人生で一番幸せな恋だった。
涙を拭う。
今でも好きだ。大好きだ。
「ありがとう。幸せになってね」
小さく呟くと涙がぼろぼろと落ちた。
息をゆっくり吐いて、ゆっくり吸う。
悲しい。寂しい。苦しくて、痛い。
でも、愛おしい。
本当は神様に晄くんの幸せをお願いしたいところだけど、こんな格好では手水舎まで行くのも恥ずかしい。
明日、改めてお詣りに来ようと思う。職場の近くなら来やすい。
濡れた頬に当たる冷たい風。凍てつくような寒さならよかったのに。涙も心も凍らせてしまいたい。
小さな振動に気付いて、鞄からスマホを取り出した。
西畑さんからメッセージが入っている。
『何時に来る?』
現在地を調べる。
驚いたことに、駅3つ分、職場を通り過ぎていた。
近くで靴とストッキングを買って、電車に乗って、と考えると昼前になりそうだ。
『昼前になりそう。靴が壊れた』
『了』
地図を見ると近くに大きなスーパーがあった。取扱い商品にレディースシューズがあることを確認して、裸足のまま、スーパーを目指して歩き出した。
道行く人にも店員さんにもぎょっとした顔をされながら、靴とストッキングと絆創膏も買った。憐れんでくれた店員さんから試着室を借りて膝に絆創膏を貼る。打ち身も酷い。ストッキングを履いて新しい靴を履いて、職場に着いたのはやはり昼前だった。
社員証を首から掛けながら西畑さんに電話した。
「お疲れ様です。高城です。もうすぐ会議室前です」
「了解。すぐ向かいます」
会議室の前に立ち尽くしていると、すぐに工藤さんがやって来た。手にはパソコンを抱えていた。鍵を開けている間に西畑さんも到着した。
3人で会議室に入った。
「HDMから連絡は?」
「ない。金曜に進捗報告入れたのが効いたな」
西畑さんの簡潔な返事に安堵する。
「良かった。私がやることは何ですか、工藤課長」
「まだ課長じゃありません。高城課長はC班のコーディングをお願いします」
「分かりました」
一応、この時間は、忘れ物を取りに来た私に、2人が細かい不明点を聞きにきているということになっている。
体面は大切だ。皆、労基が怖い。後ろ暗いところがない企業は存在しないと思うが、うちもそこまでホワイトではないから、労基と税務署は本気で怖い。
「今日の飲み会、やっぱりやるんですか?」
聞いてみたら、西畑さんが頷いた。
「ああ。でも、集金まだだな」
「そうですね。取りまとめは確か営一の趙さんでしたよね。メールで確認しておきます」
工藤さんが答えた。
2人とも本当は飲み会どころでなく、仕事を片付けたいところだろう。
本当なら、部長あたりが私の有給申請を却下して退職日まで仕事をさせるのが正しい。
でも、それをすると部長の査定が下がる。自分の身が可愛いと、こういうことになる。
昼のチャイムが鳴った。
「お2人、お昼どうされます?」
「私はここでお弁当です」
「俺も。弁当じゃないけど。ちょっと飲み物買ってきます」
コンビニの袋を机に置いて、西畑さんが立ち上がる。
「高城さんは?」
「ここ来る前に買ってきているので大丈夫です」
「紋さーん!」
「うわっ」
会議室に飛び込んで来たのは、リリちゃんだった。
出ようとしていた西畑さんが飛び退る。
「ノックしろ!」
「ごめんなさい。えへへ。来ちゃった」
西畑さんに適当に謝ったリリちゃんが抱きついてくる。
「紋さんがスーツじゃないの、初めて見たかも」
確かにそうかもしれない。
絶対に打ち合わせが入らないと分かっている休日出勤のときにしか、ラフな服は着なかった。
「紋さん、しばらくは毎日ここでお仕事ですか?」
「できれば今日で終わらせたいけど」
ちらりと工藤さんを見た。
「しばらくは毎日になりそうです」
「工藤係長、ひどーい」
「終わらないんだから仕方ないじゃない。バグが思ったより多くて回収しきれないんだもん」
工藤さんが涙目だ。
恐ろしいことに、成果物は初手でエラーを出し、全く動かなかった。原因はすぐに分かったが、復旧ではなくゼロからの作り直しになった。手分けして作業している。
怖いもの知らずなリリちゃんが、工藤さんの前でコンビニ弁当を広げた。
「紋さん、ご飯は?」
「まだお腹空いてないから、もう少し後にするよ」
リリちゃんも工藤さんも気付いているだろうけど、何も言わないでいてくれる。
諭旨退職が辛くて泣いたと思われている。それでいい。今は誰にも晄くんのことは話したくなかった。
「あ、工藤係長。美羽ちゃんが今日体調不良でお休みなんです。紋さんに会えないの寂しいって言ってたから、明日連れてきていいですか?」
「お昼休みなら」
「ありがとうございます!」
リリちゃんは金曜日から応援に来てくれている。元気がいいのは良いことだ。
飲み物を買って帰ってきた西畑さんは、惣菜パンを食べながら社内報に目を通している。
「げ、高城の諭旨退職、社内報に載ってるんだけど」
「え? なんで?」
「社内規定違反のため諭旨退職としました、だって」
「完璧に被せてきたね」
「ええ?! いいんですか、紋さん!」
「全然良くない。負けるってこういうことなんだって、今思い知った。結構傷付くなあ」
笑いたかったけど、出たのはため息だった。
「紋さんは悪くないのに! こんなの、おかしいです!」
「リリちゃん、落ち着いて」
大声を出したリリちゃんを宥めて座らせた。
「でも、こんなの」
「今の仕事が終わったら会社に抗議するから。そのためにも、リリちゃん、早く仕事、片付けてね」
「……はい」
リリちゃんは納得できない顔をしながら頷いた。
社内報は見せしめの1つだ。
来月の社内報に小さく修正記事が載って終わる。
これが、社長の身内を敵に回した人間の消され方。覚悟していても、少し胃が痛い。
昼休憩が終わり、午後の業務が始まる。
午後になると工藤さんや西畑さんに判断を仰ぐためにそれぞれの係の人が顔を出すようになった。
皆、私を見て少し驚く。でもすぐに察して軽く挨拶するだけで用事を済ませて戻っていく。
遠くから悲鳴のような、怒号のような音が聞こえた。
手を止める。2人にも聞こえたらしく、3人で顔を見合わせた。
大勢の足音が廊下を行き来している。
ノックと同時に会議室の扉が開いた。
「警察です。皆さん、手を止めてください」
晄くんがいた。




