第三幕 仮面を付けた道化師たち(5)
朝、普段と同じメイクをして鏡を見た。
酷い顔色だ。
土日に終わらせようとしていた仕事は終わらず、かといって何かしていたわけでもない。
洗濯物も溜めたまま。掃除も、食事も。何もしていない。
指で口角を押し上げてみるが、笑顔にならない。
指を離して鏡の中の自分をじっと見る。
こんなに時間をかけて鏡を見るのは、化粧を覚えた頃、大学の入学式以来かもしれない。
随分と老けた。シミは増えたし、肌の張りはない。
比較するのが十代だから当然か。
あの頃はもう少し顔が丸くて、儚げな美人に見えるにはどうすればいいか、1日中考えていた気がする。
少しだけ痩せた今も『儚げ』になることはなく、『萎んだ』としか見えない。
自分で思いついて、少し笑った。
今日から有給消化に入るというのに、普段通りに化粧をして出勤するのもおかしな話だ。
スーツを脱いだ。
シャツはそのまま。マーメイド風のロングスカート。ジャケットを羽織る。少しラフでも構わないだろう。有給休暇中に、ふらりと職場に寄っただけ、の雰囲気の方が人事や総務も咎めにくいはずだ。
労基的には完全にアウトだろうが。
晄くんから連絡は来ていない。
たくさん泣いた。おかげで頭が重い。
泣くことは惨めだ。でも、悪くない。我慢するよりすっきりする。
両手で軽く顔を叩いた。
とにかく、あのバグの山を回収しなくては就活すらままならない。
いつもより1時間遅い電車に乗った。
「紋さん、おはよ」
ホームで声を掛けられて顔を上げる。
どこかで見た。
あの、合コンの男性側の幹事だ。確か名前は。
「修也さん?」
「正解! ピンポンピンポン」
効果音がちょっと古い。
「紋さん、顔色悪くない? 大丈夫?」
「はい。何とか」
愛想笑いも疲れるので、知り合いには会いたくなかった。
「いつもこの電車? 出勤、結構ゆっくりなんだ?」
「今日は休みなんです。職場に忘れ物してるのが分かって。取りに行くところです」
「同じ駅だから一緒に行こうか」
押し付けがましくなく、それでも有無を言わせずに同じ電車に乗って隣同士のつり革を掴む。
「紋さんはもうすぐ仕事辞めるんだよね?」
「はい。今月いっぱいまでです」
「あ、今、有給消化期間?」
「はい。あの、修也さんは晄さんと同じ会社、なんですよね?」
あえて『会社』という単語を使って確認すると、修也さんはこちらを見てニヤリと笑った。
「うん。部署違うけど。昨日、チラッと見掛けたんだけど、あいつ金曜から家帰れてないみたいで。顔には出さないけどあれはそろそろ限界だな。さすがに今夜は帰してやんないと」
「大変なお仕事ですよね」
「そうそう。終わったら労ってあげて」
ずきり、とみぞおちのあたりが痛む。
「そう、ですね」
「男は好きな女の子からの『凄いね』『頑張ってるね』って言葉が欲しくて仕事してんだから」
晄くんは、私からそんな言葉が欲しいのだろうか。
考え込みそうになった私の目の前で、修也さんは大きなため息をつく。
「あいつでも彼女できたの自慢することあるんだなあ」
「自慢、ですか?」
「そう。あいつ、自分の部署で『美人の恋人いる』って宣言したらしいよ?」
ちょっと想像できなかった。
「わざわざ俺のところにあいつの後輩が来てさ。自慢されたのを自慢して、鼻高々で帰っていったけど、その場に残された俺の気持ち考えてみて? 笑っていいのか、泣いていいのか。複雑過ぎて分かんないの」
あはは、と笑った。
どこからどこまでが嘘なのか分からなかった。
その後は当たり障りのない言葉を交わして、駅の改札を出たところで別れた。
まだ朝のうちなのに、疲れてしまった。
スマホを見る。
『話したいことがあるから来て』
写真と一緒に届いた晄くんからのメッセージ。
特徴のある大きなモニュメントは、うちの会社の近くにある公園の時計台。
何も考えない。足が既に向かっていた。
会いたい気持ちと会いたくない気持ちが天秤を水平に保っている。
会えるのが嬉しい。
きちんと話そうとしてくれるのが嬉しい。
話の内容は聞きたくない。良い話なわけがない。
「紋!」
呼ばれるのと、見つけるのは同時だった。
「おはよう、紋」
近寄ると手を引かれて抱き締められた。
そっと晄くんの背中に手を回す。
「連絡できなくてごめん」
「うん。大丈夫」
全然大丈夫じゃなかった。
でも今は少し大丈夫だった。
だから、この先また大丈夫じゃなくなっても、この言葉まで嘘にはならない。
「あーや」
晄くんは両手で私の顔を包むように持ち上げて覗き込む。
晄くんの目が不安定に揺れていた。
「お疲れ、晄くん。仕事頑張ってて凄いね。偉いね」
「うん。ありがとう、紋。紋はこれから仕事?」
「職場に忘れ物したから、取りに行くところ」
「忘れ物は、あの部下ちゃんのやらかしの回収?」
頷く代わりに、晄くんの手に自分の手を重ねて、その手のひらに自分の頬を押し付けた。
目を閉じて、晄くんの体温を、かさついた温かい手を記憶に刻みつける。
唇が軽く重なった。すぐに離れていく。
手のひらまで離れてしまいそうな気配に、思わず指を絡めて引き止める。
「紋」
固い声に、次に来る言葉の予想がついた。
「しばらく、会えなくなる」
晄くんを見た。揺れているように見える晄くんの瞳。
絡めてしまった指を解く。
私が押さえつけていなくても、晄くんの手は私の頬を包んだままだった。
「晄くん。私には何が足りなかった? 晄くんのために、私が直せるところはある?」
「紋に足りないものなんてないよ。何も、直さなくていい」
もう一度、掠めるようにキスされた。
私の目から溢れた涙が、晄くんの手を濡らす。
それでも、晄くんは私の頬を両手で包んでいてくれた。
「悪いのは俺だから。紋は何も変えなくていい。変わらなくちゃいけないのは、俺だから。ごめん、紋」
弱々しい声。この声を、私は知っている。
「晄くん。私、待っててもいい?」
震えている唇を押し付けられた。唇に、頬に、額に唇を押し付けられて。
それから、唇と手が離れていった。
言葉なく見つめ合う。
頷いてくれない晄くんは、とても誠実で優しい人だった。
これがお別れのキス。
初めて、きちんと別れを告げられた。
メッセージひとつでも済んだのに。
晄くんは、私の心に必要なものを直接届けてくれた。
最後まで、私に向き合おうとしてくれた。
晄くんのまっすぐな優しさは、ちゃんと私の心に突き刺さった。
「分かった。今まで、ありがとう」
目を逸らさずに伝えた。
晄くんは何か言おうとしたのか、一瞬口を開いたけれど、結局何も言わずに小さく頷いた。
「無理はしないでね。体に気をつけて」
晄くんは頷く。
「ばいばい」
最後は声が震えたけど。
笑顔で言えた。
晄くんに背を向けて歩き出す。
紋、と聞こえた気がして、足が止まる。
息を止めて走り出した。
公園を出て、とにかく遠くへ。
方向なんて分からない。
どこかなんて分からない。
ここでなければどこでもいい。
走り慣れていない体はすぐに悲鳴を上げたけれど、無視して走った。
繁華街を抜けて、点滅する青信号を走りきったところで、派手に転んだ。




