第三幕 仮面を付けた道化師たち(2)
すぐには、声が出なかった。
「本当はデートしてからって思ってたけど。もう我慢できそうにない。ごめん。無理にとは、言わない。紋が、大丈夫なら」
手を握ったままで、でもこちらを見ないところが、優しい人だと思った。
少しだけ力を込めて、晄くんの手を握り返した。
「晄くん、あのね、1つ、ワガママ聞いてくれる?」
「何?」
「朝まで、一緒にいて」
少し、声が震えた。でも、言えた。
言えたことにホッとして、晄くんを見た。
「俺は、ずっと一緒にいたい」
晄くんが言った。
その言葉が嬉しくて、私からキスをした。
熱に浮かされた時間の後。
痺れるような余韻の残る私の体を、晄くんが抱き締めてポツンと呟く。
「紋、このベッド、小さくない?」
「ごめん、これセミシングルだから」
部屋が狭いから、小さいベッドを買った。
私1人分には十分だが、晄くんは体が大きいから余計小さく感じるのかもしれない。
「並んでると紋が落っこちそう」
「今日は、私、床に毛布敷いて寝るよ。晄くんお疲れでしょ?」
「ううん。大丈夫。いいこと考えたから」
「いいこと?」
「うん」
晄くんが私の体を自分の上に乗せた。
「こうして重なったら狭くない」
「だいぶ重いよね?」
「重い掛け布団だと思うことにする」
「いやいや、普通に寝よ? もう遅いし」
「おやすみ、紋」
腕に力を入れたまま、晄くんが目を閉じる。
ゆっくりとした鼓動が体を伝わってくる。私も目を閉じて、晄くんの心臓の音を聞く。
女友達には、すぐ体を許すからセカンドにされちゃうんだよ、と何度も言われた。それは間違いないと思う。
求められたら、嬉しいと思ってしまう。好きな人の言葉だから断れない。雑魚の雑魚たるゆえん。
でも、晄くんには言えた。ワガママを、願いを言えた。
晄くんの体を抱き締める。言えた。聞いてくれた。答えてくれた。嬉しかった。
「紋、もう1回してもいい?」
やはり寝ていなかった晄くんの声が聞こえる。
「寝てて? お願いだから」
「そんなぎゅ~ってされたら、2回戦も頑張らせていただきますってなるじゃん」
「ならないで。私は幸せを噛み締めてるところだから」
クツクツと喉の奥を揺らすような笑いを漏らして、晄くんの腕に力が入る。
「紋、可愛い」
「なにそれ」
「あの日、勇気出して紋のこと連れ出して良かった」
「勇気出してたんだ」
「うん。振り絞った。紋、賢治のこと気にしてたし、俺、印象悪かっただろうし。でも賢治は絶対ダメだからって色々考えて」
晄くんがため息をつく。
「紋、後悔してない?」
「してない。晄くんのこと、好きになって良かった」
「よろしい」
晄くんの手が私の頭を撫でる。
思い切り抱きついた。
今だけは、晄くんは私のものだと言い張れる。
「紋、やっぱり」
突然、スマホのバイブ音が鳴った。
びくりと体が震える。
鳴り止まない。着信だ。
体を起こした。
クッションの上に置いてあるスマホが震えている。
晄くんのスマホだ。
取り上げて、手渡した。
「はい、犬塚」
服を着た。部屋の明かりを付けて、晄くんの服を拾い上げた。ベッドの端に置く。
「それ、急ぎ?」
不機嫌な晄くんの声。
冷蔵庫からペットボトルの水を2本取り出した。1本を晄くんに渡す。ベッドの端に腰掛けて、水を1口飲んだ。冷たい。
晄くんの手が、私の頭を撫でる。晄くんの顔は見なかった。
怖くて見られない。
晄くんが私の肩を抱き寄せる。
私の頭に、晄くんが頬を押し付ける。
「すんません、犬塚さん。課長と連絡つかなくて」
「せめて始発で許してくんない?」
「それが……二課の連中が」
晄くんが大きなため息をついた。
私は顔を上げて、晄くんと目を合わせる。
近くにあった晄くんの顎に唇を押しつけた。晄くんの頭を撫でる。
「分かった。迎え頼める?」
晄くんがうちの最寄り駅を告げると、電話の向こうの声が狼狽えるのが分かった。
「あ……本当にすんません! できるだけゆっくり行きます!」
「馬鹿。全力で急げ」
「はい! すんません! 急ぎます! 近くまで行ったらまた電話するんで! ゆっくりしててください!」
「うるさいよ。じゃあな」
電話を切って、晄くんが私の体を抱き締めて倒れ込む。
「あぁぁぁもう!」
苛立ちを隠さない晄くんに、少しだけホッとした。
「ごめん」
小さな晄くんの声。
「本当にごめん。なんで今日なんだよ。俺、サイテーじゃん」
私を抱き締める力は弱まらない。
「そんなことない。仕事、頑張ってるだけ」
「行きたくない」
「うん」
「行くしかないのも、分かってる」
「うん」
「紋がせっかくワガママ言ってくれたのに」
もう、そのひと言で十分だった。
「うん。ちゃんと、叶えてくれようとしてくれたの、嬉しかった。だから、大丈夫」
せめてもの強がり。
「でも……ごめん」
晄くんの声はまだ小さい。
「じゃあ、2回戦どこまでできるか頑張る?」
「そんな雰囲気ないのヤダ。スポーツじゃあるまいし」
ムスッとした声がした。
晄くんの顔を見る。
「スポーツの語源は、娯楽らしいよ?」
「俺がしたいのは娯楽じゃなくて、メイク・ラブです」
晄くんの頬に触れる。不機嫌な瞳の表面に私の顔が映っている。
晄くんを上機嫌にするのは難しい。難しいと思うことは、私は上機嫌な晄くんを知っているということだ。
唇を重ねる。
ほんの少しだけ、晄くんの目から険しさが抜ける。
「ありがとう、晄くん。一緒にいられて嬉しかった」
額を晄くんの胸に押し付ける。
本当に好きだ。大好きで、大切な人になっていた。いつの間にか、堕ちていた。
私はちゃんと堕ちたから。
重荷になったり、嫌われるようなことはしたくない。
「ありがとう、晄くん」
「紋はいい子過ぎ」
晄くんが両手で私の顔を持ち上げた。
「俺がガキに見えるじゃん」
熱の名残りを惜しむようにキスを繰り返して、離れていく。
引き留めそうになる手を、反対の手で押さえつけた。
ため息をつきながら服を着る晄くんから目を逸らす。
笑顔で見送る。私ができるのは、それくらいだ。
「紋、必ず埋め合わせするから」
「うん。約束」
「また連絡する」
「うん。待ってる」
玄関で手を振って送り出す。
足音が遠ざかる。
聞こえなくなる。
鍵を掛けた。
全身から力が抜けて、その場に座り込む。
ぽた、と廊下に涙が落ちる。
「うあぁ」
声が出て、口を押さえる。
ふー、ふー、と息を吐き出す。
喉が痛い。息が苦しい。
ぼたぼたと落ちる涙を拭うことも出来ない。
痛い。苦しい。寂しい。辛い。
自分の体を抱き締めてうずくまる。
埋め合わせをすると言ってくれた。
デートしてからって思っていたと、言ってくれた。体だけじゃない。連絡をくれると言った。セカンドじゃない。好きも、愛しているも、言われなかったけれど、行きたくないと言ってくれた。
好きも。
愛しているも。
言われていない。
夜明けの廊下は冷たくて寒かった。




