第三幕 仮面を付けた道化師たち(1)
24時ちょうどだった。
『今から帰っていい?』
晄くんからメッセージが入った。
『いいよ。待ってる』
『寝ててもいいよ』
『分かった』
寝るつもりはなくて、パソコンでお気に入りの動画を見ている。
白鳥の越冬の様子。
片方だけイヤホンをつけて、繰り返し見ている。
白鳥は親子で越冬するらしい。大人の羽は真っ白だが、子どもは全体的に灰色っぽい。色は違っても家族単位で行動しているので、親子なのだと分かる。
賑やかな鳴き声。絶え間ない水の音。大きな翼が空気を叩きつけて飛び立ち、舞い戻る。
シベリアから何日もかけて、毎年、必ず戻ってくる。
家族と一緒に戻る場所。
チェストの一番下、一番奥にしまい込んだクラシックピアノのCDを取り出した。ピアノを背景に細身のドレスに身を包んで艶然と微笑む女性。
ドビュッシーやラヴェルといった近代の曲を得意としていた早世のピアニスト、高城 弥生。
親子なのに私とは全く似ていない。今の私と同い年くらいの時の写真のはずなのに。
これが最後に出したCDだった。
曲のデータはパソコンに取り込んでいるけれど、時々CDジャケットが見たくなって取り出している。
私が美人に生まれなくて一番がっかりした人だった。忙しくて家庭を顧みない人だった。何よりも音楽を、ピアノを愛した人だった。
キラキラした音が雨のように振り注いで、全身を包み込むような。
優しくて弱々しいおぼろげな光が雲間から差し込んでくるような。
柔らかい旋律が心に絡みついて、身動きが取れなくなるような。
そんな音楽を紡ぐ人だった。
私は母親よりも先に、彼女の音楽を好きになった。家族という認識はあまりなかった。別の世界の人だった。いつも遠くにいて、とても早く、ずっと遠くに行ってしまった。
大好きな音楽と憧れの景色に身を任せる。
この狭い部屋が、世界で一番優しい場所になる。
晄くんが帰ってきたのは、午前1時の少し前。
「ただいま」
小さな声に顔を上げた。
「おかえり」
「起きてたの?」
「ちょっとうとうとしてた。晄くん、晩ご飯は? 何か食べる?」
「アイス買ってきた。一緒に食べよ」
アイスは好きだ。嫌いな人なんかいないと思う。
目覚まし時計を見た。午前1時。
「半分こしようか」
悪魔、いや、魔王様が微笑む。
誘惑に負けた。
「シャワー浴びてくるから、少し待ってて?」
「うん」
何もかも1人分しかない部屋は、2人が向かい合うスペースはない。
ローテーブルに広げていたパソコンとCDを片付けて、晄くんと並んで座れるスペースを確保する。
「お待たせ」
晄くんが戻ってくる。首から掛けているタオルは見覚えがない。晄くんが持ってきた物だろう。
晄くんはアイスとスプーンを持って私の隣に座る。
「家でも仕事?」
「ううん。動画見てた」
「何の動画?」
「白鳥の越冬の様子」
「白鳥? 鳥、好き?」
「白鳥が好きなだけ。声が綺麗」
アイスの乗ったスプーンが口の前にやって来た。ぱく、と口に含む。冷たくて甘くて美味しい。口の中で溶ける至福。
日本に生きてて良かった。
「白鳥の越冬って北海道とか?」
「うん。東北とか、関東にも来たりするみたい」
「さっき見てたのは東北の動画?」
「うん。新潟の、大池公園。県の観光地情報に動画が上がってるの」
「新潟は中部地方です」
「新潟県ごめんなさい」
「はい、あーん」
アイスクリーム、美味しい。
「紋って関東の人?」
「関西の人」
「訛ってないじゃん」
「小学校まではアメリカでね、中学から東京」
「関西の要素は?」
「3歳まで奈良の山に住んでた。三輪素麺って知ってる?」
「聞いたことはある」
「その三輪山の近くに住んでた」
「へえ。奈良の山からアメリカに行ったんだ」
「うん。でもアメリカに住んでる日本の人に日本語教わったから、あんまり訛ってないんだと思う」
だから私の知識には穴があるのだ。基本的な日本の情報が不足している。
サブカルの話題は営業トークとして有効だから、社会人になってから詰め込んだ。青色のネコ型ロボットは、社会人になってから耳がない理由を知った。妹が黄色なのに、どうして兄は青いのかとずっと思っていた。まさかネズミが原因だなんて。ロボットなのに。
「アメリカって、ご両親の仕事とかで?」
「母親がアメリカで活動してた。お父さんは分からないの。私生児って今でも言うのかな?」
「今は婚外子、かな。ごめん、変なこと聞いた」
「ううん。大丈夫。晄くんは? ずっと神奈川? ハマっ子なの?」
「……俺、神奈川出身って言ったっけ?」
「言ってないけど。語尾に“じゃん”って神奈川の方言でしょ?」
「うん。当たり。神奈川の海側。でもハマっ子ではないな。はい、最後の一口。あーん」
「あーん」
アイスクリーム、美味しい。
「ごちそうさまでした」
言うと、晄くんが柔らかい笑みを向けてくれる。
アイスのカップとスプーンを預かって立ち上がる。
片付けて振り返ると、晄くんがスマホを触っていた。
仕事の関係だろうか。
聞けない。
晄くんの仕事の話は、たぶん簡単に話せないことばかりだから。
仕事の関係でなかったら、きっと、もっと聞けない。
本当に雑魚だな、とため息が出る。
歯を磨いて戻ってくると、晄くんと目が合う。
「紋」
「何?」
「紋のお母さんって、この人?」
スマホの画面に、母のCDのジャケットが表示されていた。
「知ってたの? ピアニストだって」
「さっき、CDのジャケット見えた。ごめん。亡くなってたの、知らなかった」
「気にしないで。知ってたらちょっと怖い」
「それもそうか」
晄くんは納得したように言って、ベッドに腰掛けた。
「電気消すね?」
リモコンで明かりを消す。
暗くなった部屋で、晄くんはベッドに腰掛けたまま動かなかった。何となく隣に腰を下ろす。
「紋」
「うん?」
手を握られた。
「したい」




