17話 手の甲に……
「おお、フェリクスよ。やっと来たか。レディをお待たせするものではないぞ」
「早くお座りなさい。分かっていると思うけれど、席はカトリーヌちゃんのお隣よ」
「優しい息子だ。カーラにそっくりでな。ぜひ仲良くしてやって欲しい」
「あら、ミノスに似ていてよ。強くて賢いところが」
「カーラ」
「ミノス」
目の前で二人の世界に入ろうとする夫婦の会話は、ろくにカトリーヌの頭に入ってこない。
フェリクス王子の足音が、うつむいているカトリーヌのすぐ後ろを横切る。
王子がどのような姿なのか、カトリーヌはずっと想像していた。
悲鳴をあげないよう、心の準備として。
想像の中の王子は、カーラ王妃のように下半身が蔓植物であったり、ミノス王のように牛頭であったりした。
王子に見つめられると幻惑されるという噂もあったので、見た者を石に変えるゴルゴンのように、蛇の髪を垂らしているのかもしれない。とまで考えていた。
「遅くなりまして申し訳ありません」
王子が着席したのだろう。涼やかな声がすぐ隣から響いてきた。
なぜかその声は、聞いたことがあるような気がした。
こっそり胸に手をあてて、母の形見のペンダントを握りしめる。
(大丈夫。どんなに恐ろしい姿であっても……失神はしない!)
ひそかに深呼吸をしたカトリーヌは、再び背筋を伸ばした。
すぐ近くで、王子に見つめられているのが分かる。視線を、横顔に感じる。
カトリーヌは首を回し、ゆっくりと、できるだけ優雅に顔を向けた。
つややかな漆黒の髪がまず目に入る。
紫色の瞳がこちらを見つめている。
人間離れした、絵画のように整った顔がそこにあった。
カトリーヌは顔を向けた姿勢のまま固まってしまった。
微笑んで挨拶どころではない。
だって――、
「あのときの! 白の騎士様⁉」
峠道で出会った騎士たちのなかに、彼はいたのだ。
「騎士? なんのことかしらフェリクス。迎えに上がったのは四騎士と聞いているけれど?」
「いえ、なんでもありません母君。僕はカトリーヌ嬢の出迎えに無理に同行したりなどしていませんよ」
「したのね」
呆れた、という声で王妃が言った。
一方、カトリーヌといえば混乱の真っ最中だ。
王子の姿がヒト族と変わらないなんて、とか。
いや、寧ろ整いすぎていて、ヒト族ではありえないかもしれない、とか。
作り物みたいに美しくて、生きて動いているのが信じられない、とか。
そんな彼が、わざわざ自分を出迎える騎兵たちに紛れていた、とか。
え? 王子みずから迎えに出るって何? とか。
そんな彼が、ずっと自分を見つめている、とか。
色々なことが頭のなかを巡って、状況が理解できない。
「これ、フェリクス。ご令嬢の顔をそうまじまじと見つめるのではないよ。お前の顔は怖いんだから。いやはや、無作法な息子で申し訳ない」
確かに、整った顔であるほど無表情だと怖いかもしれない、とカトリーヌが思いかけたときだった。
王子のアメジストの瞳がほんのわずかに曇った。悲しげに。
(あら? 意外に分かりやすい、かも? 無作法と言われたのが嫌なのかしら。それとも、怖い顔という言葉の方?)
無言のまま見つめてくる王子に対して、カトリーヌは蛇に睨まれたカエル状態になっていた。
王子の唇の端に戸惑いが浮かんだ。
どんな感情なのだろう? とカトリーヌが思ったときだ。
王子がやっと、カトリーヌに向けて言葉を発した。
「お会いできて光栄です。カトリーヌ嬢。僕は……」
そう言いかけて言葉を切った王子の手が、カトリーヌの顎に伸びた。
反射的にびくりと震えたカトリーヌに、王子はすぐさま手を引っ込める。
「すみません、つい」
そう言って軽くうつむいた王子は、やっとカトリーヌの目から視線を外してくれた。
そのおかげで、カトリーヌは少し気が楽になった。
(「つい」ってなに? 王子が私に触れようとしたの? 傷ついたような目をしたけれど、なぜかしら?)
そう考えていると、王子がふわりと顔を上げた。
「間違えました、こちらでしたね」
王子はそう言うと、カトリーヌの右手をとる。
壊れ物でも扱うように、そっと。
「貴女に敬意を表する光栄を、僕に与えてくれますか? カトリーヌ嬢」
「あああの、よろしいです、ですわ!」
初めて男性に手を取られた驚きで、わけも分からないまま答えてしまう。
すると、王子はカトリーヌの手の甲に恭しくキスを落としたのだ。





