9話 琥珀の自己紹介
琥珀の自己紹介
向けられ続ける無垢な笑顔に、カズヤの居心地は悪くなる一方だった。自分のような人間が、これほど純粋な善意の標的になることに慣れていないのだ。
沈黙の重みに耐えかね、包帯の下の疼く顎を慎重に動かして、どうにか言葉を紡ぎ出す。
「あ、あの……」
「はい! なんでしょう? 喉が渇きましたか? それとも、お腹が空き……あ、でも先生の許可をいただいてからでないと……。ええと、看護師さんを呼んできますね!」
カズヤの微かな声を遮るほどの勢いで、レナは椅子から身を乗り出してきた。心配そうに眉を八の字に寄せたり、慌ててナースコールに手を伸ばそうとしたりと、その仕草はいちいち大袈裟で、けれどどこまでも懸命だ。その必死な様子には、思わず見入ってしまうような不思議な可愛らしさがあった。
(あ、この人……もしかして、結構な天然さんなのかな……)
緊迫していた空気がふっと緩み、拍子抜けしたカズヤの肩から、少しだけ強張っていた力が抜けた。
「いや、そうじゃなくて。名前をまだ、聞いてなかったから。……俺は、相沢カズヤ」
「あ……そうですよね! わたしは病院の手続きで一方的にお名前を知ってしまっていたので……つい、ご挨拶が遅れてしまいました。申し訳ありません」
レナはハッとしたように目を見開くと、恥ずかしそうにポッと頬を朱に染めた。そして、もう一度丁寧に、流れるような動作で会釈をする。
「わたしは、綾瀬レナです。これからは、レナとお呼びください」
レナと名乗った少女の仕草一つひとつには、隠そうとしても隠しきれない育ちの良さと、気品が滲み出ていた。それは、カズヤが住むじいちゃんの遺してくれた古い一軒家や、インスタント食品に囲まれた荒んだ生活とは、あまりにも対極にある、光り輝く世界の住人であることを物語っていた。
慎ましき反抗
「いや、綾瀬さんは……どうして夜に一人で出歩いて……」
カズヤはそこまで口にして、すぐに言葉を飲み込んだ。自分だって他人には触れられたくない、暗い過去や複雑な事情を抱えて生きている。初対面の、それも繊細な年頃の女の子に対して、あまりに踏み込んだ質問だったのではないか。後悔が胸をちくりと刺す。
「えっと……」
レナは琥珀色の瞳を少しだけ伏せ、困ったように自分の膝の上で白く細い指先を遊ばせた。その指が、所在なげにスカートの生地を小さく弄ぶ。
「わたし、悪い子なので……。その、どうしてもお家での習い事が嫌になってしまって……。こっそり裏口から抜け出したところを、あの男の人たちに声を掛けられてしまって……」
『わたし、悪い子なので』
少しだけいたずらっぽく、それでいて申し訳なさそうに添えられたその言葉。それは、カズヤがこれまで見てきた「悪」とは程遠い、あまりにも無垢で、純粋な響きを持っていた。
家出というにはあまりに慎ましやかな、彼女なりの精一杯の「反抗」。その健気な告白が、彼女の住む世界の清廉さを物語っている気がして、カズヤは思わずふっと、包帯に隠れた口元を緩めていた。
「……そっか。まぁ、たまには逃げ出したくなることもあるよな」
自嘲気味ではない、どこか穏やかなカズヤの相槌に、レナは弾かれたように顔を上げた。その双眸には、自分の過ちを咎められなかったことへの驚きと、それ以上に深い親愛の情が、温かな灯火のように宿っていた。
琥珀の憤慨
「そっか……そういうことが。また、何かあったら呼んでくれたら駆けつけるから。……って、俺が自分の弱さを忘れて、こんなざまなんだけどな」
自嘲気味に笑いながら、カズヤは包帯に覆われた不恰好な自分の体を見やった。助けたつもりが、結局は無様にのされて病院のベッドの上。格好悪いにも程があるという思いが、喉の奥を苦くさせる。けれど、レナは少しの迷いもなく、力強く断言した。
「はい、とても頼りにしていますよ」
その琥珀色の瞳には、自分を卑下するカズヤを真っ向から否定するような、澄んだ強い光が宿っている。
「相沢くん。……『くん』とお呼びしても良かったですか?」
「綾瀬さんの好きに呼んでもらって構わないよ。この見た目だから……学校じゃデブとかキモデブとか、いつもそう呼ばれてるからさ」
吐き出した言葉は、長年浴びせられ続けてきた悪意の残滓だった。自分を規定する呪いのような呼び名を、諦めと共に口にしたカズヤに対し、レナの表情が一変する。
「……むぅ……。それは、断じて許せませんね。とってもヒドイ呼び方ですっ!」
レナはぷうっと頬を膨らませ、握りしめた小さな拳を膝の上で震わせた。潤んだ瞳には、カズヤに対する同情などではなく、彼を不当に傷つけた者たちへの、一点の曇りもない真剣な憤怒が燃えている。
「相沢くんは、わたしの命を救ってくださった、とっても優しくて勇敢な方です。そんな風に呼ぶ人たちが間違っています!」
自分のことのように、あるいはそれ以上に真っ直ぐに怒る彼女の姿に、カズヤは毒気を抜かれた。向けられる怒りの矛先が自分ではなく、自分を苦しめてきた「悪意」に向けられている。その事実に、胸の奥に澱んでいた冷たい塊が、少しずつ溶け出していくような錯覚を覚えた。




