7話 白昼の困惑
(……ここ……個室なのか?)
意識の焦点が合うにつれ、影を落としていた視界の端々に部屋の様子が浮かび上がってきた。同室の患者が立てる衣擦れも、カーテン越しに漏れ聞こえる低い話し声も、一切の気配がない。壁際に整然と並び、静かに、だが精密に稼働する高価そうな医療機器だけが、冷たく無機質な光を放っている。天涯孤独の身となった自分には、大部屋の片隅にある狭いベッドの上でさえ、身に余る贅沢だというのに。
(俺なんか大部屋で良いのに……自腹なのか? それとも……)
脳裏をよぎるのは、あの古い家の机に置かれたままの、今のところは十分に生活が送れるだけの数字が刻まれた通帳だった。余計な出費をしては今後の生活が苦しくなるとカズヤは自嘲気味な笑みを浮かべようとしたが、引き攣れた頬の皮膚が鋭い痛みを訴え、それを無情に阻む。
あの時、腹部にナイフの熱を感じた瞬間、カズヤは自分の人生の幕をそこで下ろしたつもりだった。見知らぬ少女を救うという、泥沼のような一生の中でたった一度だけ掴み取った「正しいこと」。それを成し遂げた充足感と共に、永遠に続く安らかな眠りについたはずだったのだ。
それなのに、自分は生き延びてしまった。
静まり返った贅沢な個室で、カズヤは再び、逃れられない重たい生の実感と、真正面から向き合わされていた。ピー、ピーという電子音だけが、彼の意志とは無関係に、鼓動を刻み続けている。
白昼の困惑
微かな衣擦れの音と共に、重厚な扉が音もなく滑るように開いた。
「やっと、目を覚まされましたね」
入ってきた看護師が、安堵したように目尻を下げて柔らかな笑みを浮かべる。彼女は手慣れた動作で点滴の残量を確認し、脈拍をチェックしながら、どこか茶化すような、温かいトーンで言葉を継いだ。
「彼女さんが心配そうに、毎日欠かさずお見舞いに来ていましたよ。あなたが眠っている間も、ずっと付き添っていらしたんです」
(ん? 彼女……? 毎日……?)
今の自分にはおよそ縁のない聞き慣れない単語に、カズヤの思考は一時停止する。脳の回路がショートしたような感覚を覚えながら、喉の奥に張り付いた異物感を無理やり押し殺し、掠れた砂のような声で問い返した。
「彼女……ですか?」
「ええ、そうですよ。とても可愛らしい彼女さんですよね。品があって、こう、いかにも育ちの良そうなお金持ちのお嬢様、って感じの女の子です。羨ましいくらいですね」
看護師の屈託のない、それでいて確信に満ちた言葉が、カズヤの脳内をさらなる混乱の渦へと突き落とす。
自分のこれまでの、惨めなほどに色彩を欠いた人生をどれだけ遡ってみても、お嬢様どころか、まともに目を合わせて言葉を交わした女子の知り合いなど一人として思い当たらない。不登校で引きこもり、鏡に映る自分の姿を見るのさえ嫌悪するほどに荒れ果てた今の自分に、毎日見舞いに来るような熱烈な知人がいるはずもなかった。
静寂の個室に、再びピー、ピーという電子音だけが響く。カズヤは困惑の中で、その「彼女」と呼ばれる存在の正体を探ろうと、ぼやけた意識を必死に手繰り寄せていた。
予兆の足音
「俺に、女の子の友達どころか、知り合いもいませんけど……」
カズヤの口から漏れたのは、乾いた砂を吐き出すような自嘲の混じった声だった。自分のような存在に、誰かが寄り添うはずがない。その確信に近い卑屈さが、言葉の端々に滲む。
「そう……なんですか? でも、そろそろ面会時間なので、またいらっしゃると思いますよ。本当に親身になって、容態はどうですか、自分に出来ることは無いでしょうかって、何度も詰め所に足を運んでくださって……。あまりにずっと付き添っていらしたので、てっきり彼女さんかと」
看護師は少し意外そうな顔を浮かべ、瞬きを繰り返した。だが、すぐにまた慈しむような笑みを戻すと、ワゴンに乗った医療器具が触れ合う小さな金属音を響かせながら、軽やかな足取りで部屋を後にした。
再び訪れた静寂。個室という閉鎖された空間に、カズヤの不規則で荒い鼓動だけが、耳障りなほど大きく響き渡る。
(毎日? 俺なんかのために……?)
目を閉じれば、あの惨劇の夜、街灯も届かない闇の中で必死に背中に隠した、少女の震える細い肩の感触が蘇る。助けたはずの自分が、意識を失っている間、逆に名も知らぬ誰かに見守られ続けていたという、信じがたい事実。
ドクン、ドクンと、心臓の音が耳の奥で早鐘を打ち始める。間もなく訪れるという、その「彼女」との再会を前にして、カズヤは包帯に覆われ、醜く腫れ上がった顔のまま、出口のない戸惑いの渦にただ一人立ち尽くしていた。




