20話 琥珀の宮殿と戸惑いの箱庭
琥珀の宮殿と戸惑いの箱庭
視界に飛び込んできたのは、病院という概念を根底から覆すような、静謐で贅沢な空間だった。
病室であるはずのそこには、ゆったりとしたソファが鎮座する広々としたリビングのような一角があり、奥には最新式のシステムキッチンが鈍い銀色の光を放っている。清潔感の溢れる独立したトイレはもちろん、磨き上げられた大理石調のタイルが敷き詰められた広々としたバスルームまで完備されていた。病棟の一角にいながらにして、外界との接触を断ち、すべての生活がこの一室のみで完結するように設計された、浮世離れした「特別」な箱庭。
「良いお部屋そうで良かったですね、相沢くん。これなら、お怪我の予後も安心です」
レナは満足げに室内を見渡し、ふかふかのベルベット調のソファに白く細い指を滑らせた。その仕草一つをとっても、彼女がこの環境を「当然の権利」として受け入れていることが見て取れる。
(……ここ一泊、一体いくらかかるんだよ!?)
カズヤは豪華な調度品の一つひとつに視線を移すたび、鋭い痛みにも似た胃の重さを感じていた。これまでの人生、安アパートの湿った空気や、埃っぽい教室の隅、そして誰からも顧みられない孤独な一軒家という、贅沢とは無縁の場所で息を潜めるように生きてきたのだ。
彼にとって、この至れり尽くせりの環境は、安らぎを与えるどころか、むしろ自分の身の丈を嘲笑われているような、底知れぬ恐怖に近い感覚を呼び起こしていた。
「……綾瀬さん、あのさ。やっぱり、俺には早すぎるっていうか……。こんな、映画に出てくるような部屋にいたら、逆に落ち着かなくて病気が悪化しそうなんだけど……」
カズヤが縋るような思いで声を絞り出すと、レナはくるりと振り返った。窓から差し込む午後の柔らかな光が、彼女の琥珀色の瞳を透き通らせ、神秘的な輝きを与えている。
「ふふ、そんなに緊張しないでください。相沢くんは、ただそこにいてくださるだけでいいのです。……ここは、誰にも邪魔されない、わたしたちだけの場所なのですから」
彼女が歩み寄り、カズヤの座る車椅子の背もたれにそっと手を置く。その瞬間、高級なアロマの香りとレナの体温が混ざり合い、カズヤの逃げ場を塞ぐように室内に充満した。
外の世界では、自分を「キモデブ」と呼び、石を投げる者たちがいる。けれど、この厚い扉に守られた聖域の中だけは、自分を「理想の騎士」として見つめる少女の瞳だけがある。そのあまりにも甘美で歪な現実に、カズヤは恐怖を感じながらも、抗いがたい安堵の濁流に飲み込まれそうになっていた。
琥珀色の献身と甘い籠城
「こちらなら、わたしも過ごしやすくなります♪ ソファーにキッチンもありますよ」
部屋を隅々まで見渡し、満足げに何度も頷いたレナが、春の陽光をそのまま形にしたような笑顔をカズヤに向けた。その言葉の響き――「わたしも」という、当たり前のように隣にいることを前提とした響きに、カズヤの心臓はまたしても落ち着かない、暴力的なまでの鼓動を刻み始める。
「こちらは、面会時間の制限はありませんので……どうぞ、ご自由にお過ごしくださいね」
去り際、担当の看護師が口元に含み笑いを浮かべながら、あえて余計な一言を添えていった。その背中を見送りながら、カズヤは顔が熱くなるのを必死に堪える。
(……頼むから、そんな誤解を招くようなことを言わないでくれ……!)
カズヤの内心の悲鳴をよそに、レナはその言葉に敏感に反応した。
「そうなのですか……。そう……ですね……。制限がないのでしたら……」
レナは柔らかそうな白い頬に人差し指をあて、何やら真剣な表情で考え込み始めた。睫毛の長い瞳を伏せ、思案にふけるその仕草一つをとっても、完成された絵画のような美しさが、磨き上げられた大理石や高級な調度品に囲まれたこの空間に、さらなる彩りを与えていく。カズヤはどこに視線を置いていいか分からず、ただ膝の上で自分の指を弄るしかなかった。
看護師が静かに、けれど確実な重みを持って扉を閉めて出て行くと、広すぎる特別室には二人きりの、濃密な沈黙が流れた。遮音性の高い壁の向こう側にある病院の喧騒すら届かない、隔絶された世界。しかし、その静寂を鮮やかに破ったのは、レナの弾むような、鈴の音に似た声だった。
「相沢くん、何か食べたい物はありませんか? わたし、こう見えてもですね……実は、お料理をすることが好きなのですよ♪ こちらにある材料で作れるものなら何でも作りますから、ご一緒に食べませんか?」
レナが琥珀色の瞳を宝石のようにキラキラと輝かせ、隠しきれない期待に満ちた表情でカズヤの顔を覗き込んでくる。
「え、料理? 綾瀬さんが……作ってくれるの?」
「はいっ! 相沢くんの体力をつけるために、栄養満点で、それでいて……その、美味しいものを食べていただきたいんです」
彼女がキッチンの方へ向かい、冷蔵庫の中身を確認し始める。その足取りは軽く、まるで自分の城を手に入れた姫君のように誇らしげだ。カズヤは、最新式のキッチンの前に立つ彼女の背中を見つめながら、これから始まる「二人きりの入院生活」という、想像もしていなかった甘美で恐ろしい時間に、ただただ圧倒されていた。




