18話 琥珀の聖域と見えない対価
レナが少しだけ小首をかしげ、その高い地位にあるはずの医師へと視線を向けた。
「……それで、先生。相沢くんの容体ですが、まだ『不安定』ということで、よろしいですね?」
鈴を転がすような、あまりにも澄んだ声。けれどその響きには、拒絶を許さない絶対的な強制力が宿っていた。
「は、はいっ……! もちろん、もちろんでございます! 相沢様の容体は極めて慎重な経過観察を要します。当院の総力を挙げ、VIP用の特別静養室にて、最低でもあと二週間……いえ、ご納得いただけるまで万全の体制で管理させていただきます!」
先ほどまで「ベッド数が足りない」と正論を吐いていた佐藤が、信じられないものを見るような目で上司を仰ぎ見る。
カズヤは、目の前で繰り広げられるあまりにも非現実的な光景に、眩暈を覚えた。自分のために、彼女が動かした「何か」。それが、この巨大な組織を瞬時に跪かせたのだ。
(綾瀬さん……君は、一体何者なんだ……?)
窓から差し込む光を浴び、微笑みを浮かべるレナの美しさは、今のカズヤには、救いの天使のようでもあり、同時に、すべてを支配する恐ろしいほどの力を持つ女王のようにも見えていた。
琥珀の聖域と見えない対価
「……お知り合い、ですか?」
担当医の佐藤が、魂を抜かれたような呆然とした面持ちでレナに尋ねた。院内でも滅多に姿を現さないはずの理事が、あれほどまでに卑屈な態度を見せたのだ。佐藤の困惑も無理はなかった。
「いえ、父の関係者……でしょうか」
レナは困ったように小首をかしげ、けれどどこか涼しげな、春のそよ風のような微笑みを浮かべて答えた。その曖昧な言葉とは裏腹に、主治医の説明を形式的に終えるや否や、カズヤの移動準備が恐ろしいほどの速度で、慌ただしく開始された。
「……『特別室』って……何だろ? いわくつきの部屋だったりして……?」
あらぬ想像をして、カズヤはベッドの上で身をすくめた。自分のような日陰者が案内される場所など、日の当たらない、薄暗い、訳ありの部屋に違いない――そんな卑屈な思考が頭をよぎる。それを見たレナは、慈しむような優しい視線をカズヤへと投げかけた。
「大丈夫ですよ、相沢くん。もしそのようなお部屋でしたら、すぐに別の……もっと相応しい場所に作り替えてもらいますから」
レナがさりげなく、荷物をまとめ始めた看護師に鋭い視線を向けると、看護師は弾かれたように慌てて首を振った。
「だい、大丈夫ですよ! 『特別室』というのは、当院が誇る最高級のVIP専用個室のことですから。通常はお忍びで入院される政財界の方などが使用されるお部屋で、普段は厳重に空き部屋として管理されているんです」
(え、は、はい? ちょ、ちょっと……待て……)
カズヤの脳内に、真っ白で広大な高級ホテルのような内装と、天文学的な数字が並ぶ差額ベッド代の請求書が浮かび上がった。祖父が遺してくれた蓄えはある。けれど、それはこれからの孤独な人生を細々と繋いでいくための、命綱のような金だ。それが、この数日間で一気に消し飛んでしまうのではないかという、身を切るような不安が濁流となって押し寄せてきた。
「あ、あの……綾瀬さん。俺、そんな高い部屋、払えないよ……。普通の大部屋でいいんだ、本当に。贅沢なんて、俺には似合わないから……」
カズヤが縋るような目でレナを見つめると、彼女はそっと彼の手に自分の手を重ねた。その指先は驚くほど滑らかで、けれど、カズヤを逃がさないという強い意志を秘めて、力強く握り込まれた。
「お金のことなら、心配いりません。相沢くんは、ただ、わたしが用意した場所で、ゆっくりと心と体を休めてくださればいいのです。……ねっ」
潤んだ琥珀色の瞳の奥に、抗いようのない深い慈愛と、ほんの少しの独占欲が揺らめいている。カズヤは、彼女が作り上げた完璧な「聖域」へと、なす術もなく引き込まれていく自分を感じていた。




