17話 琥珀の聖域
琥珀の聖域
主治医の佐藤が、どこか恐縮したような苦笑いを浮かべて入室してきた。
「いやー、気が利かずにすまなかったね。主治医の佐藤です」
看護師が椅子を差し出すと、佐藤はそこに腰を下ろし、手元の資料に目を落とした。厚みのあるカルテには、カズヤが死の淵から這い上がってきた壮絶な記録が刻まれている。
「怪我の治りは極めて良好です。このまま順調にいけば、あと二、三日で退院できますよ」
その言葉は、本来なら日常への帰還を告げる希望の響きのはずだった。しかし、それを聞いた瞬間、レナの細い肩がびくりと跳ねたのをカズヤは見逃さなかった。
「……怪我が不安なので、あと一週間、入院をお願いできませんか?」
レナが弾かれたように立ち上がり、佐藤を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、カズヤを万全の状態になるまで一人にはさせないという強い、けれど切実な不安が滲んでいる。まるで、一度手放せば二度と会えなくなってしまうのではないかと恐れる迷子の子供のような、危うい光を宿して。
「いや、一日二日なら調整もつきますが、一週間となると流石に無理ですよ。ベッド数の問題もありますし、他の患者さんの兼ね合いもありますから」
医師は事務的に首を横に振り、きっぱりと言い放った。無理もない。ここは常に多くの命が交錯する大きな総合病院なのだ。個人の感情で公共のルールを曲げるわけにはいかない。
「そう……ですか。少し、失礼します」
レナは困ったように細い眉を寄せ、微かに唇を噛んだ。その瞬間、彼女が纏う空気が、ふわりとした春の風から、鋭く、冷たい何かに変貌したのをカズヤは肌で感じた。
彼女は迷いのない手つきで、昨日磨き上げられたばかりのスマートフォンを取り出す。そして、流れるような動作で窓際へと歩み寄ると、画面に並ぶ連絡先の一つを迷わずタップし、耳に当てた。
逆光に照らされた彼女の背中が、ひどく遠く、そして巨大なものに見えた。
カズヤの知らない、彼女が背負う世界の「力」を振るうための電話。
「……ええ、わたしです。相沢くんのことなのですけれど……」
窓の外に広がる、どこまでも高く、無慈悲なまでに青い夏の空。その光を背負いながら、レナは静かに、けれど有無を言わせぬ響きを湛えた声で、誰かに向けて言葉を紡ぎ始めた。
(……誰に、電話してるんだ? 綾瀬さんは、一体……)
カズヤはベッドの上で、ただその背中を呆然と見つめることしかできなかった。主治医の佐藤もまた、部屋の中に漂い始めた異様な威圧感に気圧されたのか、手に持った資料を強く握りしめたまま、次の言葉を失っていた。
琥珀の静寂と、冷徹なまでの守護
数分後、静まり返った廊下から、耳障りなほどに重々しい音が響いた。ガラガラと、ノックも無しに強引に扉を開ける音。現れたのは、糊の利いた白衣を纏い、明らかに病院内で高い役職に就いているであろう、傲然とした空気を放つ年配の医師だった。
「……はい。……はい。承知いたしました。そのように対処いたしますので、どうぞご安心してお任せください」
その男は、スマートフォンを耳に当てたまま、何者かに対して卑屈なまでの追従を見せながら入ってきた。
その姿を見た瞬間、主治医の佐藤と看護師の顔色が、一瞬にして土気色に変わった。二人は弾かれたように立ち上がり、最敬礼に近い角度で、腰を折るようにして深く頭を下げたのだ。男は通話を終えたが、部屋の隅で静かに佇むレナの様子を、まるで怒れる神の機嫌を伺うかのように、息を殺して見守っている。
(ん? 綾瀬さんは、一体誰と話をしてるんだ……? 目の前の、見るからに偉そうな医師じゃなさそうだけど……。あの偉そうな医師の方は、もう話を終えてるし……)
カズヤの困惑をよそに、レナはゆっくりと、優雅な動作で通話を終えた。そして、何事もなかったかのように平然と、元の椅子に座り直している。その琥珀色の瞳は、先ほどの切実な揺らぎを完璧に消し去り、底知れない静謐さを湛えていた。
新しく入ってきた医師と佐藤の間では、言葉少なに激しい目配せが交わされていた。冷や汗を流しながら、何かを必死に伝えようとする佐藤と、それを一瞥で黙らせる高位の医師。その光景は、カズヤが知る「病院」という場所の常識を、音を立てて崩していく。




