13話 琥珀の残り香と躊躇い
琥珀の残り香と躊躇い
窓から差し込む清浄な朝の陽光が、微睡みに沈んでいた意識をゆっくりと覚醒させた。
重い瞼をこじ開け、まだ微かに痺れの残る腕を慎重に動かしてサイドテーブルへと手を伸ばす。そこには、昨日まではなかった一枚の小さな紙片が、朝の光を浴びて静かに置かれていた。
丸みを帯びた、けれど芯の通った可愛らしい筆跡が、白地の上を軽やかに踊る。
『相沢くんがぐっすり眠ってしまわれたので、お邪魔にならないよう失礼しますね。もし寂しくなった時は、いつでも、気兼ねなくご連絡ください。 レナより』
指先でその紙の柔らかな感触を確かめる。文字の端々に彼女の温もりが微かに残っているような気がして、カズヤの胸の奥が、実体のない熱い何かで静かに満たされていった。
「わぁ……可愛い置手紙、初めてもらったな……。こういう物をもらえるなんて、人生で二度とないだろうな。……宝物にするか」
誰かに必要とされ、誰かの心に留めてもらえることの、震えるような幸福。カズヤはそれを失うのが怖くて、サイドテーブルの鍵付きの引き出しをそっと開けると、スマートフォンと共に、壊れ物を扱うような手つきで大切に奥へと仕舞い込んだ。
「今日も、綾瀬さんは……来てくれるのかな」
ふと、独り言が掠れた口を突いて出る。だが、自分のような人間のために、彼女のような輝かしい存在の時間を奪い続けるのは、あまりにも申し訳ない。そう自分に言い聞かせ、スマートフォンを手に取ると、気遣いのつもりで「今日は、来なくて大丈夫だよ」と、やんわりとお断りする文面を打っては消し、打っては消しを繰り返した。
胸の内で激しい葛藤が渦巻く。震える指先は送信ボタンを押すのを何度も躊躇ったが、最後は逃げるように、決死の覚悟で画面を叩いた。
本当は、痛いほど分かっていたのだ。
あのふんわりとした春の風のような空気感や、向けられる淀みのない笑顔。それらが、長年凍りついていたカズヤの孤独な心を、どれほど優しく、深く溶かしてくれているかを。彼女と過ごすひとときは、今のカズヤにとって、唯一の、そして何物にも代えがたい救いとなっていた。
静寂の宣告
やがて、運ばれてきた質素な朝食を無機質に終え、今やルーチンとなった朝の診察が始まった。
「傷口は順調に塞がってきていますね。やはりお若いから、回復も非常に早いですよ」
白衣を纏った担当医の穏やかな言葉に、カズヤの胸に小さな安堵が広がる。順調にいけば、あの孤独な、けれど祖父との思い出が詰まった一軒家へ帰れる日も遠くないはずだ。だが、医師は手元のカルテをパタンと閉じると、どこか改まった、重みのある表情でカズヤを真っ直ぐに見つめた。
「相沢さん、お身体の状態と、退院を含めた今後の予定について、改めて詳しくご説明があります。この後、少しお時間をいただけますか」
その真剣すぎる眼差しに、カズヤは背筋を冷たいものが走り、心臓の鼓動がわずかに早まるのを感じた。
(……身体の状態? 傷は治ってきてるって言ったばかりじゃないか。……もしかして、自分でも気づいていない、もっと悪いところがあるのか……?)
医師の沈黙が、病室の静謐さをよりいっそう深いものへと変えていく。カズヤは乾いた喉を飲み込み、枕元に置かれたスマートフォンの画面を無意識に一瞥した。そこには、先ほど勇気を出して送った自分からの拒絶に近いメッセージが、ポツンと残されている。
「……はい。わかりました」
絞り出した声は、自分でも驚くほどに震えていた。窓の外では、朝の光を反射した入道雲が、嵐の予感を含んだまま静かに形を変えていた。
琥珀の訪問
午後になり、面会時間の開始を告げる時計の針が重なるにつれ、カズヤの鼓動は不規則に、そして騒がしく跳ね始めた。
これまでの荒んだ学生生活を振り返っても、女子と関わる機会といえば授業のグループワーク程度だった。それさえも、隣り合わせになった女子からは、汚い物でも見るような露骨な嫌悪の視線や、言葉にすらならない冷ややかな蔑みの目を向けられるのが常だった。カズヤにとって、異性の視線とは常に自分を切り刻む刃でしかなかったのだ。
それが、どうだろうか。今朝、あんなにも必死に断るメッセージを送ったというのに。彼女は「心配ですから」と、一言だけの返信を残し、自らの意志で再びこの場所へ来ることを選んでくれた。
(……勘違いするな。綾瀬さんは、ただ責任感が人一倍強いだけだ。俺が彼女のせいで大怪我をしたから、義務感から……仕方なく来てるだけなんだ。そうに決まってる)
自分に言い聞かせ、胸の奥で芽生えようとする期待という名の甘い毒を、必死に自虐の言葉で薄めようとする。その時、静まり返った個室の扉を、控えめな、けれど再会を待ちわびたような弾むノックの音が叩いた。
「失礼いたします。……相沢くん、起きていらっしゃいますか?」
扉の隙間から、ひょこりと顔を覗かせたのは、昨日よりも少しだけカジュアルな装いのレナだった。琥珀色の髪をサイドでゆるくまとめ、手には可愛らしい花束と、小さな包みを抱えている。
「勝手に来てしまって……ごめんなさい。でも、どうしてもお顔が見たくて」
はにかむように微笑む彼女の姿は、逆光を浴びてキラキラと輝き、カズヤが先ほどまで必死に築き上げていた心の防壁を、一瞬で無意味なものへと変えてしまった。




