生きなさい
―――はぁ、まったく。やっぱりこうなったか。でも、久しぶりの外っていいねぇ。力を貸した甲斐はあったよ。
「………え?あ、ここって……」
気が付くと私は暗闇の中に立っていた。そして、あの時と同じくまた声が響いた。
―――あ、起きた。……君、どうしてこうなったか憶えてる?
「どうしてって……」
(テオの事を助けて、その後にジュリアン……さんが来て………)
思い出した時、まるで心がその事実を拒むように私に激しい頭痛が襲ってくる。思わず手で頭を押さえると、また彼の声が響いた。
―――まぁ、自我を失うほどの負の感情だからね。事実だと認めたくないのも仕方ない。
「……自我を、失う……?負の感情……?」
―――え、聞いたことない?君のような『魔性の落とし子』は負の感情が大きくなると暴走しちゃうっていう話。今、君はそうなってるんだよ。
「……ちょっと待って。話についていけない」
―――……どこが?
「全部だよ!!わ、私って魔性の落とし子だったの!?」
全てが初耳の情報だった。私が魔性の落とし子なのも、魔性の落とし子が負の感情に飲み込まれると暴走してしまうことも。
―――君、バカなの?まさか知らなかったとは……いや、しょうがないか。記憶が無いもんね。それに、妖精特有の尖った耳も幻影魔法で見えなくされてるし。
「と、尖った耳?記憶が無い?一体どういうこと……?」
―――君、10年以上前の記憶、思い出せないんじゃない?
「え、そんなわけ………」
(10年以上前、10年前……あれ?おかしいな……?)
記憶を遡っていっても、10年以上前に私が何をしていたか思い出せない。これを記憶喪失というのだろうか。
「私、10年前、何してたっけ……?」
―――教えてほしい?
「教えて!!お願い!」
―――んー、それは………あ、もうすぐタイムリミットだね。残念、君はもう帰らないと。現実の君の身体が暴走して、大惨事になってる。……ほら、誰かが泣きながら君を呼んでるよ。
『…………シエラ! お願い、目を覚まして、ルシエラ……!』
闇の向こうから、私を呼ぶ声が優しく響いた。
その瞬間、お母さんの声が温かい白い光となって、暗闇の空間を眩しく引き裂いていく。
(……この声、お母……さん……?)
―――まぁ、大丈夫だよ。もうすぐ思い出すからさ。
去り際に彼が言った言葉の意味を考える暇もなく、私の身体はエメラルドグリーンの光の膜に包まれ、現実の意識へと浮上していった。
目を開けると、視界を染めていた漆黒の光は消え失せていた。代わりに私を包んでいたのは、血の匂いと、世界で一番大好きな、温かいお母さんの両腕。
「…………え?……お母……さん……? 」
「…よかった……正気に、戻ったのね…………」
見上げると、お母さんは胸から激しく血を流しながら、それでも私を見て優しく微笑んでいた。雨が激しく私達を打ち付ける。
同時に、私が心の中にいた時の現実の記憶が流れ込んできた。
漆黒の翼を広げ、黒い涙を流し、攻撃していく姿。私を見て悲鳴を上げ、逃げ狂う人々。
人間とは言い難く、まさに化け物そのものだった。
そして、私が破壊の魔法を放とうとした時、ひとつの「白」が飛び込んできた。ドォォォンという衝撃のなかで、私の身体を、ぎゅっと優しく包み込む温もり。それは、大好きな、世界で一番温かい、お母さんだ。そして、それによって私は正気に戻ったのだった。
「…わ、わたし……なん、てことを………。…おかあ、さん……なん、で………?」
冷たいものがまた頬を伝っていく。お母さんは私から少し身体を離し、涙が止めどなく流れる頬に血で染まった手を添えた。想像できないほど痛いはずなのに、お母さんはとても優しい笑みを私に向けていた。そして、息も絶え絶えになりながら、私に言葉を遺した。
「ルシエラ……人間を、彼らを憎んじゃダメ……。怒りに身を任せたら、あなたの優しい心が、闇に喰い尽くされちゃう……」
「……お、かあ…さん…………」
私を思う母の言葉が、頬からの手の温もりが、冷えた私の心を溶かしていく。
「生きなさい。生きて……あなたが………あなたらしく…笑える場所を、見つけるのよ……」
それだけ言うと、お母さんの手がガクリと落ちた。
「…………………え……?…………う、そ……。うそ……だよ、ね…………。……嘘って…言ってよ!!」
激しく流れる血の海の中で、お母さんの身体は急速に冷たくなっていく。
(わたしは…………わたしは……また……お母さんを…………殺した、の?………………え?…『また』………?そんなわけない!!だって…だって……私のお母さんは…………)
『―――君、10年以上前の記憶、思い出せないんじゃない?』
私は、先程心の中で言われたことを思い出した。
(……そうだ…『10年前』……10年前に、わたし………わたしは……………………)
その瞬間。私のものではない、けれど間違いなく私のものである【失われた記憶】が、頭の中を猛烈な勢いで駆け抜けた。
―――妖精は産まれた瞬間から、すべての記憶を保持すると言われている。
日の光をいっぱい浴びたような黄色い花。その花が辺り一面に咲いている花畑。
そして、両親の大輪の花のような温かな笑み。
あの幸福な色彩が、どろりとした紅色で塗り潰されていく。
―――しかし、妖精である彼女が記憶喪失になるほど、それはあまりにも残酷な過去だった。
『全部無かったことにすればいい。⋯…壊して、ね』
耳元で優しく囁く、不吉な黒い翼を持つ男の影。
背後では縹色の炎が燃え盛り、蝶のような羽を持つ者達が互いに傷つけ合っている。
女は槍を振り回し、最愛の相手を貫く。
子供は親の首筋にナイフを立て、幾度も幾度も突き立てる。
若者は奇声を上げながら、自らの羽を引きむしる。
老人はかつての仲間を、魔法で傀儡のように操る。
男は縹色の炎を撒き散らし、自分の身まで焼く。
辺りに悲鳴、絶叫、咆哮、怒号、叫喚が響き渡る。それと同時に地獄の業火がさらにその勢いを強めていく。
そして、血を流しながら自分を抱きしめ、人間の世界へ逃がしてくれた、尖った耳を持つ本当のお母様の顔と声。
『貴方は……生きなさい。生きたら……貴方が………本当に…幸せ……だと思える…場所に………きっと出会える……から』
―――さあ、思い出した? 君が自ら封じ込めていた、本当の過去を。
心の中の彼の声が、私の脳裏で優しく、そして冷酷に響いた。すべての記憶がパズルのように嵌まった瞬間、私の意識は、激しい雨の降る現実世界へと引きずり戻された。




