化け物
私は何十メートルも遠くにいるテオに手を伸ばして叫んだ。でも届かない。
(もっと、もっと私に力があれば!なんで、なんで!!私の足では間に合わないのに!)
テオが襲われそうになっているのに。すぐそこに見えているのに助けられない。自分自身の無力さに嫌気が差した、その時だった。どくん、と。昨日からずっと熱を持っていた背中の奥が、激しく脈打った。
―――力が欲しい?
静かだった水たまりに水滴が落ちて波紋が広がるように、その声が心の中に響いた。すると、その瞬間、私は真っ暗な何もない空間にいた。でも、私の周りだけ薄いエメラルドグリーンの膜のようなもので覆われていた。
「え?⋯⋯ここ、どこ?さっきの声は⋯⋯?⋯⋯それよりも、テオは!?」
私の声が暗闇に溶けていく。しかし、溶けていった私の疑問に答えるようにまた誰かの声が響いた。
―――ここは君の心の中。僕は⋯しいて言うなら君の味方、かな。テオくんは大丈夫だよ。今は時間が動いていないから。
「時間が⋯⋯止まってる?」
―――うん、信じられないかもしれないけどね。
「私の⋯味方?」
―――そう、味方。⋯⋯今のところは、だけど。
いきなりのことで状況が飲み込めずにいると、急かすような声が響いた。
―――力、欲しいんでしょ?だったら、さっさと僕を解放してよ。そろそろこの空間を維持するのも限界なんだ。⋯⋯やっぱりあの頃と比べたら僕も格段に力が落ちたな⋯。
「解放って、閉じ込められてるの?つまり悪い事したんじゃ⋯⋯」
―――とにかく!君は僕を解放してくれれば良いんだよ。テオくんを見殺しにするの?
姿の見えない彼は、食い気味にそう言って私を追い詰める。
「それは嫌だ!!絶対に!」
そう言うとどこからか、かすかに笑った気配がした。
―――フフッ、それじゃあ今回だけは力を無償で貸してあげる。頑張ってね。
エメラルドグリーンの膜が消えて、暗闇になる。しかし、その黒がだんだんと晴れていく。
意識が、現実の肉体へと急速に引き戻される。
目を開けた瞬間、世界は完全にその『色』を失っていた。灰色に染まり、ぴたりと動きを止めた世界。
遥か前方、テオの頭上で、巨大な魔物の爪が空中に停止している。
「これが……時間が止まった世界……!?」
その驚きをかき消すように、私の背中から、バリバリと衣服を引き裂いて【巨大な漆黒の翼】が解き放たれた。
そこから先は私もよく覚えていない。
それを羽ばたかせるだけで、景色が後ろへとすっ飛んでいった。もう一度羽ばたく。目の前にいる止まった人々を間一髪で避けていく。
(テオを助けないと⋯…!)
私はその一心で羽ばたいていた。
気が付くとテオと巨大な魔物が目の前にいた。それと同時に世界が一瞬で色づいた。人々が逃げ惑う声と魔物の咆哮が辺りに響く。
そして、テオに巨大な魔物の爪が当たりそうになった時、時間が動いているにも関わらず、全てがスローモーションに見えた。最後に全力で羽ばたき、テオと魔物の間に入る。
ガギィィィィィィィン!!
翼と魔物の爪が当たり、鼓膜を震わせる硬質な衝撃が辺りに響いた。翼を伝って、脳を揺らすような重い振動が全身に走る。
私はそれを気に留めず、いきなり現れた私に驚いている魔物に掌を向けた。その掌から翼と同じ漆黒の魔法陣が展開される。本能的に危険だと判断したのか、魔物が逃げようとした。しかし、逃がすはずもなく、私は冷徹な声で呟いた。
「―――死ね」
その命令に呼応して、魔法陣から全ての光を吸い込むような黒い柱が出て、魔物の心臓に当たる。
ドォォォォォォン!!
魔物は木っ端微塵に砕け、跡形もなくなっていた。
私はふぅ、と張り詰めていた息を吐くと、くるっと振り返ってテオに手を差し出した。
「テオ、大丈夫?」
その時だった。パシッと音を立てて、手に痛みが走った。驚いたものの、どこか怪我しているのかもしれないと、もう一度手を伸ばした。
「テオ、どこか怪我が―――」
「さ、触んな!!化け物が!」
「……………………え?」
テオは見たこともないほど恐怖に顔を歪め、地面を這いずるようにして私から距離を取ろうとしていた。その怯えきった視線に導かれるように、私は自分の肩越しに目を向ける。
そこにあったのは、夕闇を吸い込んだかのような、禍々しく巨大な漆黒の翼だった。
(これ、は……私の、翼……?)
呆然と立ち尽くす私のポケットから、さっきテオがくれた飴が滑り落ち、夕日に照らされたアスファルトの上を転がっていった。
「て、テオ?」
私は、ガタガタ震えながら腰を抜かして後退りしているテオの名前を呼ぶ。すると、彼はヒイッ!と情けない声を出して私を睨みつけた。
「お、お前、魔性の落とし子だったのかよ……!俺は、前からお前のこと…おかしいと思っていたんだ!!」
叩かれた手の甲が、さっきの魔物の重い衝撃よりも何倍も痛く感じた。頭の奥が真っ白になり、自分の背中にある黒い翼の重みだけで、地面に押し潰されそうになる。
私は何も言えずにテオを見ていると、コツコツといくつもの硬い軍靴の音が響いた。振り返ると、そこにはジュリアンさんと異端審問騎士団がいた。
「ジュリアンさん⋯…!」
私はジュリアンさんに駆け寄ろうとした時、シュッと空気を切る音と共に私の喉元に剣が突きつけられた。
「ジュリアン、さん……?」
「………化け物の分際で、僕に気安く触ろうとしないでくれるかな。これだから落とし子は不気味で嫌なんだ」
昨日までの優しい声はどこにもない。氷のように冷たい声が、私の耳を刺した。
「君が『魔性の落とし子』ではないか、学校でずっと監視していたのさ。はぁ、今までの生徒とのおままごとは退屈だったよ。でも、時間を操り、一撃で魔物を消す規格外の性能……素晴らしい。監視していた甲斐があった。」
「……え?…ジュリアンさん……さっきから…何言ってるの……?」
そう呟くと、ジュリアンさんはハハッとわざとらしく笑って、数時間前とは違う感情のない目で私を見た。
「物分かりが本当に悪いな。まぁ、化け物だし仕方ないか。……君は軍の研究室へ行くんだ。大人しく捕縛されてくれるよね?暴れられるとこっちに被害が出るから困るんだよ。」
「う、うそだ!そんなこと、思ってないよね?……ねぇ!ジュリアン!」
名前を呼んだ瞬間、彼の目が私を冷酷に睨みつけ、剣を振った。私は何もできず、ただただジュリアンさんを見つめていたが、翼が勝手に動いた。ガキィンという剣と翼がぶつかる音で私は彼に攻撃されたことを知る。
「へぇ、この羽根、結構硬いね。こんなものをいつも隠し持っていたなんて。……まあいいや。とりあえず捕まえるぞ。」
「「おぉ!」」
ジュリアンが異端審問騎士にそう言うと、彼らは私を捕まえようと囲った。
(ジュリアンさんが、私を捕まえる?…なんで?……だってジュリアンさんは…ジュリアンは………い、嫌だ!嫌だ!!なんで!?どうして?どうしてこうなったの!?)
4人で笑い合っていた学校生活が蘇ってくる。ミレイとテオは中等部からの親友で、ジュリアンは高等部になって仲良くなった。高等部になってからは4人はいつも一緒で、学校一の仲良しグループと噂されたほどだ。それに、あの時のジュリアンの表情は絶対に嘘じゃなかった。
(でも…でも……!)
気が付くと、私の頬に冷たいものが伝っていた。それはやがて黒い液体になり、私の顔を濡らす。黒い翼がより艶のある漆黒になっていく。
………そこから私の意識はプツリと途絶えた。
「……なんだ、なんなんだ!!あれは……!!」
「あ、あんなの、化け物どころではない。災害だ!!」
それは言葉通り地獄絵図だった。魔物も人も誰でも構わず真っ黒に染めようと、破壊の魔法を浴びせていく。黒い翼に黒い涙を流すその姿は、人間ではなく、魔物そのものだ。
「は、ハハハ。なんだよ、あれ……」
ジュリアンは乾いた笑みを浮かべ、変わり果てた黒い魔物を見つめる。 それがこちらを向いて手を翳した瞬間、彼の視界は、逃れることのできない漆黒へと染まっていった。




