まばゆい光が照らすもの
4月の下旬から、北海道の花々は一気に開花する。
レンギョウの黄色と、桜のピンクが重なり合って美しい。
テレビでは梅まつりの映像が流れ、我が家の庭では椿が満開になっている。
朝の日差しは眩しいほど明るい。
道行く子供の色とりどりのランドセルや、まだ着崩れていない制服の高校生を照らす光は、未来への希望を讃えているようだ。
ただ――まるで春の山菜のように、希望はどこか苦味をはらむ。
学校に馴染めない子、人間関係に押しつぶされそうな若者、孤独の中で子育てをしている母親、重責の中で眠れなくなる人、人生の黄昏を受け入れられない老人――そういう人も春の風景の中にいるはずなのに。
光が目に入りすぎるせいか、『新生活はこうあるべき』という耳障りのいい言葉が心に浮かんでくる。
心のざわめきのその鬱陶しさに、『こうあるべき』という『普通』は一つの面であって、全てではない事を忘れそうになる。
私自身、小学校に全く馴染めない子供だった。
低学年の時は少食過ぎて給食を完食できず、運動神経は皆無。徒競走では他を寄せ付けない最下位。遠足は仮病を使って休む。普段の日でもチャンスがあれば休む。そういう子供だった。
小学校は修行の場でしかない。
楽しそうなふり。
みんなが好きなものを好きなふり。
仮面をかぶり、無難に日課を過ごす。
できる事なら教室でずっと本を読んでいたいところなのに、仲間外れにされているんじゃないかと気を揉む担任のために、休み時間は外に行く毎日。
子供だって気を使うんだよ。
そんな私の春の楽しみは、新しい国語の教科書だった。
インクの匂いのするそれを、貰ったら一気に読む。4歳上の姉の去年の教科書をお下がりで貰えるので、それも読む。なんなら参考書でさえ読む。
教科書は読み物だ。
とにかく違う世界が見たかった。
読書家の姉が語る――万葉集だの、長恨歌だの、そんな世界を。
「音楽はモーツァルト、芸術はミケランジェロだよ」
それはいつかは私もたどり着く世界で、小学校では語り合えない世界だった。
そうやって、いくつもの花を越えて――
春よ、春。
桜の花びらと、判で押したような『新しい』という言葉の向こうに何が見えるだろう。
今日、今、すれ違ったあの子は『良い子のみんな』ではなく、遠い世界を渇望する魂かもしれない。




