扇子と団扇
「いらっしゃい!」
椎名の涼しげな声がした。店に入ってきたのは原田さんだ。腰から下げたタオルを取って顔を拭きながらの登場だ。
「相変わらず蒸し暑いな……。椎名、ビールくれ!」
そう言って、原田さんはタオルを腰に戻し、お尻のポケットから扇子を取り出して広げ、パタパタし始めた。
椎名は早速キンキンに冷えたビールとグラスを原田さんの前に置いて、ビールをグラスに注いだ。
「お、今日はサービス良いな!」
原田さんは笑った。
「ええ、扇子で仰ぐのが忙しそうだったので……」
椎名はそう言って笑った。
「じゃ、椎名もグラス出しな。一杯どうだ?」
原田さんは扇子でパタパタしながら椎名が注ぎ終わったビール瓶を持ち上げた。
「あ、御馳走様です! 頂きます!」
椎名はそう言って、グラスを出した。原田さんは一旦パタパタをやめてビールを注ぐ……。
「じゃ、かんぱーい!」
原田さんのかけ声で、二人は一気にビールグラスを傾ける。いつ見ても二人とも良い飲みっぷりだ……。
「ああ、美味しい! あ、これサービスです」
そう言って、椎名はペン立てに差してあった団扇を取り出し、原田さんパタパタ……。
「おお! 冷房利いた部屋でのダブルはめちゃくちゃ涼しいぞ!」
原田さんは上機嫌。見ているこっちまで笑顔になってくる。
「原田さん、その扇子、お気に入りみたいですね?」
俺は聞いた。
「兄ちゃん、良く気が付いたな……。これ今年買ったやつなんだけどな、普通のやつより一回り大きいんだ。しかも、何とかって素材で普通のやつより軽くできていて、快適なんだよ」
扇子にそんないろいろあるのか……。
「前に使ってた扇子は、結構長い間活躍していたよね?」
大将がそう言いながら、原田さんの前に小鉢を置いた。
「お、冷やし中華かい?」
確かにハムと錦糸卵の細く切ったものが乗っている。
「麺の代わりにキンキンに冷やしたトコロテンを入れといたよ」
大将は言った。確かに美味そうだ……。
「兄ちゃん、食ったのかい?」
原田さんは言った。
「いえ、俺は今日、これで……」
そう言って自分の小鉢を傾け、原田さんに見せた。
「お、梅クラゲに数の子イカか……。そっちはそっちで美味そうだな」
そう言いながら、原田さんは冷やし中華風のトコロテンを一口すすった。
「うひゃ~! よく冷えていて、美味いわ!」
大喜びの原田さん。大将も嬉しそうに笑っている。
「ところで、前の扇子だけどよ。あれ、三年以上使ったんだぜ。柄が気に入っていてさ……」
原田さんがそう言って笑った。
「ジャガーズファンクラブ特典でもらったやつですよね?」
椎名が言った。
「そうそう、扇子の柄がグラウンドになっていて、その時のレギュラー陣のイラストが入っていてさ……。引退やら何やらで、三年目ともなると、さすがに半分くらい選手は入れ替わっていたけどな……。ま、何度か修理したけど、要が壊れたからどうにもならなくて買い換えたってわけだよ」
原田さんが扇子を広げながら説明した。
「要?」
椎名が聞いた。
「要だよ。『肝心要』の要。キャッチャーは野球の要だから、このキャッチャーの位置にある金具だな」
原田さんは扇子の根本の所を指さして椎名に言った。
「『扇の要』ですね?」
俺は言った。
「そうそう、兄ちゃんわかっているねぇ」
原田さんは笑って持っていた扇子で俺を扇いでくれた。俺の後ろにつってあった風鈴がチリンと音を立てた。
「確かに、随分風がきますね」
俺は言った。
「そうなんだよ。前に横ちゃんと呉服屋行ったことがあったって言っていただろ? 横ちゃんが椎名のトンボ玉買った店だよ」
原田さんは言った。
「ええ、覚えています」
「あの店で見つけたんだよ。店員がいろいろ教えてくれてよ……」
原田さんは扇子をパタパタしながら言った。深い藍色の中に煙のような白い模様が描かれた扇子。結構良い値段がしそうだ……。その時、玄関が開く音がした。
「こんばんは。チャオ! 椎名」
入ってきたのは月野さんだ。団扇でパタパタやっている。
「いらっしゃい!」
椎名の透き通った声。
「蒸し暑いわね。毎日。あ、水割りで」
月野さんは言った。
「クラッシュアイスでいくかい?」
大将は言った。
「勿論!」
月野さんはいつものあどけない笑顔で答えた。
「クラッシュアイス?」
俺は聞いた。
「ああ、アイスコーヒーのウイスキー版って感じかな? 冷え方がハンパないんだよ」
大将は笑った。
椎名は製氷機から氷を取り出し、ミキサーに入れた。なるほどそう言うことか……。そして、出来上がった氷をグラスにぎっちり詰めた上からウイスキーを入れた。
「はい、どうぞ」
椎名は月野さんの前に置いた。月野さんは暫くマドラーでかき混ぜてから一口。
「あ~~! 美味しい。というか冷たい。正直冷たすぎて味は殆どわかんない」
そう言って笑った。
「何だか良いんだか勿体ないんだか……」
原田さんが笑った。
「あ、でも飲み終わった後に、一気に香りが戻ってくるのよ。それがすっかり病みつきで……」
月野さんはそう言って笑った。
「なるほど、焼酎でやってもうまいかもな」
原田さんが言った。
「カラオケ行ってきたんですか?」
椎名が月野さんに言った。
「カラオケ? どうして? 行ってないけど……」
月野さんが不思議そうに言った。
「いや、カラオケ屋さんの団扇を持っていたので……」
椎名は月野さんがカウンターに置いた団扇を指さした。
「ああ、これ? 会社出たところでもらったのよ。ちょうど暑かったからそのままパタパタしながら……」
月野さんは言った。
「それにしても、斬新なデザインですね。裏面に思い切り『団扇』って書いていますよ」
椎名はそう言って笑った。月野さんは置いていた団扇を持ち上げてひっくり返した。
「あら、本当ね。全然気付かなかった。すごいわね、このデザイン」
そう言って笑った。
「『浴衣』も覚えちまっているからそう読めるけど、『団扇』も覚えてないと『うちわ』って読めないよな?」
原田さんが言った。
「団扇も当て字ですからね……」
俺は言った。
「お! やっぱり兄ちゃんは知っているんだな? 物知りだよな。聞かせてくれよ」
原田さんが言った。
「元々、全然違う漢字なんですよ。漢字は難しいので忘れましたが、『は』っていう道具があったんですよ。虫とかを払うのに使う。それで虫を打つから『うちは』って呼んだらしいです」
俺は説明した。
「へぇ、知らなかったな……。で、何であの漢字なんだ?」
原田さんは言った。
「『団扇』の『団』の字は、『丸い』って意味なんですよ。だから団扇らしいです」
俺は言った。
「何だか『団』っていう字は『集まる』って感じをイメージしちゃいますね」
椎名が言った。大将も頷いている。
「そっちの意味の方が、後でできたものみたいですよ」
俺は言った。
「でも、集まれば確実に輪になるわよね? だからかな」
月野さんは言った。
「そうかもしれないねぇ」
大将が言った。
「それはそうと、団扇って一度も買ったことないのに知らない間に段々増えてきません? 私の会社だけかしら。仕事中団扇で扇いでいる人なんて一人もいないのに、誰の机にも必ずといって良いほど何枚か団扇があるような気がするんだけど……」
月野さんは言った。
「まあ、あちこちで配っていますからね。団扇とポケットテッシュは私も買ったことが無いですよ」
椎名が答えた。
「俺の場合は百円ライターだな。いつの間にか一杯持っている」
原田さんが言った。
「俺はボールペンかな……」
俺は言った。
「ところが、いつの間にかなくなっちゃいないかい?」
大将が言った。
「捨てた覚えもないのにね」
月野さんが笑う。確かに俺もそうだな……。
「あら、原田さん、素敵な扇子をお持ちですね」
月野さんは原田さんの扇子に気付いたようだ。
「ああ、さっきひとしきりこいつの話で盛り上がっていたところだよ。今年買ったやつで、お気に入りさ」
原田さんは嬉しそうに月野さんに扇子を渡した。月野さんはそれを受け取って、パタパタした。
「すごい! 軽いのにすごく風がきますね!?」
月野さんは言った。
「ああ、何でも新素材らしくて、店員の説明聞いていたら、無性に欲しくなって買った」
原田さんは言った。
「ネットで買えるかしら?」
月野さんは扇子のあちこちを探し始めた。製品番号でも探しているのだろう。
「あ、それは無理だよ。あの店のオリジナル商品だって言っていたから。何ならまた近い内に行かなくちゃいけないから買っておいてやろうか?」
原田さんは言った。
「そんな、悪いですよ。場所を教えてもらえたら、自分で買いに行きます」
月野さんは言った。
「じゃ、地図書いてやるよ。大将、紙と鉛筆かしてくれ!」
そう言って、原田さんは大将から紙と鉛筆を受け取り、地図を書き始めた。
「良いなぁ、私もそのトンボ玉のお店、一度行ってみたいな……」
椎名が言った。
「じゃあ、椎名、明日一緒に行く?」
月野さんは言った。
「良いんですか?」
椎名が話しに飛びつく。
「じゃ、俺のツーシーターを貸し出してやろうか? いつも通り満タン返しで」
原田さんが言った。月野さんはよくわからないといった表情で、椎名の顔を見る。
「原田さんの仕事用の軽トラックを使って良いって。私、運転します」
椎名が言った。
「椎名とドライブかぁ……。ついでに他にもどこか行こうか? 私も免許持っているから交代で運転して」
月野さんが言った。急遽明日は月野さんと椎名のドライブが決定したようだ。




