扉の向こう側
扉が、背後でゆっくりと閉まった。
その音が、やけに大きく聞こえた。
高い天井には太い梁が渡され、壁には各地の地図や魔物の資料がずらりと並んでいる。広間には武器や防具を身につけた冒険者たちが行き交い、あちこちから賑やかな声が聞こえてきた。
革と鉄と、少し焦げたような匂い。床を踏む靴音と、誰かの笑い声。
酒場で何度も話を聞いて、思い描いてきた光景だった。けれど、聞くのと実際に見るのとでは、まるで違う。
「北の遺跡の調査依頼、もう募集が始まってるぞ」
「前回は途中で引き返したんだろ?」
「ああ。奥に新しい通路が見つかったらしい」
ヴァンは思わず、声のした方を振り向いた。
(新しい通路……)
まだ誰も足を踏み入れていない場所なのか。それとも、昔の人たちが残した何かが眠っているのか。想像しただけで、胸の奥がとくんと跳ねる。
「おい、坊主。入口で突っ立ってると邪魔だぞ」
「わっ、すみません!」
慌てて脇へ寄ると、大きな荷物を背負った冒険者が笑いながら通り過ぎていく。
「初めてか?」
「は、はい!」
「そうか。なら、しっかり見ていけよ」
冒険者は軽く手を振って、人混みの中へ消えていった。
口元が、勝手にゆるんでいる。気づいて、慌てて引き締めた。
(本当に、入っちゃったんだ……)
視線の先に、受付のカウンターが見えた。
ここから、歩いて十歩ほど。
扉は開けた。けれど、登録を申し出なければ、ただ見学に来た少年のままだ。
足が重い。怖さが消えたわけじゃない。腰の短剣がかちゃりと鳴って、手のひらにじわりと汗がにじんだ。
『ただいまって言う勇気だけ、持ってこい。』
バルドの声を思い出す。渡されたパンの温もりが、まだ指先に残っている気がした。
(……うん。まだ、歩けてる)
そう思って、一歩踏み出した、そのとき。
壁際の大きな掲示板が、視界の端に入った。
何十枚もの依頼書が貼られ、その前に冒険者たちが集まっている。
足が、止まった。
(……ちょっとだけ)
受付はすぐそこだ。わかっている。
怖さを先延ばしにしたい気持ちが、まったくないと言えば嘘になる。でも、それだけでもなかった。
街道の護衛。村から寄せられた魔物討伐。鍛冶屋が求める鉱石の採掘。遺跡や未踏地域の探索。
一枚ずつ目で追うたび、胸の奥がそわそわと騒ぐ。
『北方遺跡・未調査区画の探索』
(さっきの通路の話だ……)
行ってみたい。そう思った直後に、依頼書の端の受注条件が目に入って、肩が落ちた。
(……今の僕じゃ、まだ無理か)
隣には、『東の森・薬草カレンタの採取』の依頼書があった。
森の浅い場所で採れる、ありふれた薬草だ。
(東の森……)
そういえば、酒場の常連たちが灰牙狼の話をしていた。普段より浅いところで見かけたとか、そんな話だったはずだ。
(浅い場所なら、きっと大丈夫……だよね)
そう考えながら依頼書を眺めていると、さらに隣に貼られた紙に、見覚えのある名前を見つけた。
『解毒草シスリカの採取』
「……シスリカ」
思わず、小さく声に出た。
図鑑で読んだことがある。日当たりの悪い場所を好む解毒草で、ただ暗ければいいわけじゃない。土に適度な湿り気があって、特定の木の近くに生えていることが多いはずだ。
依頼書に書かれた採取地域を、指でなぞる。
(本にはほかの地域に多いって書いてあったのに、この辺りにも生えるんだ……)
条件さえ合えば、見つかるのだろうか。
それなら、近くにはあの木が生えているのかもしれない。だとしたら、土の状態は……。
「……面白いなぁ」
ぶつぶつと呟きながら、いつの間にか依頼書に顔を近づけていた。
「何か、気になる依頼がありましたか?」
「うわっ!?」
飛び上がって振り返ると、ギルドの制服を着た女性が立っていた。
落ち着いた雰囲気の人だった。驚かせてしまったのか、少し申し訳なさそうに眉を下げている。
けれど、その目はヴァンの顔を見て、ほんの一瞬だけ意外そうに瞬いた。
「ごめんなさい。ずいぶん熱心に読んでいらっしゃったので」
「い、いえ! 僕が勝手に驚いただけで……」
顔が熱くなる。依頼書に夢中になって、周りがまるで見えていなかった。
(登録に来たのに、何してるんだ僕は……)
逃げ道を探すように視線をさまよわせて、それから、ヴァンは小さく息を吸った。
「あの、僕、今日は……冒険者の登録をしに来たんです」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
女性は少し目を見開き、それから、ふわりと微笑んだ。
「それは、嬉しいお話ですね。ご案内します。こちらへどうぞ」
「は、はい!」
女性の後を追って、受付へ向かう。
途中、若い職員が女性に駆け寄ってきた。
「すみません、先ほどの依頼の件なんですが……」
「確認は済んでいます。依頼主への連絡も手配しましたので、報告書だけお願いします」
「は、はい。助かります!」
淀みのない、落ち着いた声だった。職員が頭を下げて去っていく。
「……すごいですね」
思わず漏れた言葉に、女性が振り返る。
「あっ、いえ。お仕事、大変そうだなって……」
「ふふ。忙しい日もありますけど、冒険者の皆さんが無事に帰ってこられるよう支えるのが、私たちの仕事ですから」
(帰ってこられるように……)
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
冒険者は、一人で戦うものだと思っていた。でも、こうして支えてくれる人たちもいる。
危険な場所へ向かうのは冒険者自身だ。それでも、帰りを待ち、無事を願ってくれる人がいる。
(……そっか)
少しだけ、肩の力が抜けた。
案内された椅子に腰を下ろすと、女性が引き出しから一枚の用紙を取り出した。
「それでは、こちらの申請書にご記入ください」
「あ、あの。それなら、もう……」
「はい?」
「書いてきたものが、あるんです」
ヴァンは鞄を開けて、奥にしまっていた一枚の紙を取り出した。
何度も折り畳んだ跡が、くっきりと残っている。端は擦り切れて、紙全体がくたびれていた。
書き終えた日から、何度も開いては閉じた。記入した内容を確認しては、また鞄にしまった。
名前も、年齢も、住所も、全部書いてある。
あとは、出すだけ。
ただ、それだけのことが、どうしてもできなかった。
何度もギルドの前まで来た。今日こそはと思いながら、扉を見上げた。けれど、そのたびに足が止まってしまった。
両親が帰ってこなくなった、あの日から。
冒険者になりたいという気持ちと、冒険者になるのが怖いという気持ち。その二つの間で、ずっと立ち止まっていた。
ヴァンは手元の申請書を見つめた。
指先が震えている。
今でも、ちゃんと怖い。冒険者になれば、もう憧れているだけではいられない。
いつか本当に、危険な場所へ向かうことになる。
そして、もしかしたら……。
そこまで考えて、ヴァンは小さく首を振った。
(……怖いなぁ)
思わず、苦笑しそうになる。
ここまで来ても、まだ怖い。
でも。
知らないことを知りたい。行ったことのない場所へ行ってみたい。まだ見たことのない景色を、この目で見てみたい。
その気持ちだって、ずっと変わっていない。
ヴァンは顔を上げた。
目の前には、穏やかに待ってくれている受付の女性がいる。その向こうには、大勢の冒険者たちがいる。
そして、このギルドの外には、まだ知らない世界が広がっている。
「……お願いします」
ヴァンは、両手で申請書を差し出した。
震える手で、まっすぐに。
「僕、冒険者に……なりたいんです」
女性は、差し出された申請書に目を落とした。
何度も折り畳まれた跡。擦り切れた端。
長い間、大切に持ち歩かれてきたことがわかる、くたびれた一枚の紙。
それを見て、女性はほんの少し微笑んだ。
けれど、何も尋ねなかった。
ただ、両手を伸ばして、その申請書を丁寧に受け取った。
「はい。確かにお預かりします」
ヴァンの手から、紙が離れた。
たった、それだけのこと。
けれど、何度もできなかったことだった。
女性は申請書を広げて、記入された内容に目を通した。
「ヴァン・エンデリオンさん。……ヴァンさん、ですね。お名前、覚えました」
穏やかな声だった。
「……はい!」
ヴァンは、少し照れくさそうに頷いた。
ずっと渡せずにいた一枚の申請書は、今、確かに受付の向こう側にある。
怖さは消えていない。
けれど、ヴァンの口元には、小さな笑みが浮かんでいた。




