↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/14

始まりの一歩

翌朝。

ヴァンは、いつもより早く目を覚ました。

身支度を済ませ、鞄の中身を確かめる。

財布。短剣。そして、冒険者登録申請書。

何度も折り畳んだせいで、紙にはくっきりと折り目がついていた。

名前も、年齢も、住所も、すべて記入してある。

あとは、ギルドに提出するだけ。

たった、それだけだ。

(……よし)

ヴァンは申請書を鞄に戻し、部屋を出た。

階下へ降りると、厨房にはもう火が入っていた。

鍋から湯気が立ちのぼり、焼きたてのパンの匂いが店いっぱいに広がっている。

「おう、起きたか」

バルドは、背を向けたまま言った。

「顔を洗って、座れ。食ってから行け」

「……はい!」

テーブルには、いつもの煮込みと、厚く切ったパンが並んでいた。

ヴァンは椅子に座り、手を合わせる。

「いただきます!」

パンをちぎり、煮込みにつけて口へ運ぶ。

温かくて、少ししょっぱくて。

いつもの味だった。

けれど、今朝は一口ずつが、やけに胸にしみた。

「……なあ、ヴァン」

「はい?」

「鞄は逃げねえぞ」

「えっ?」

「さっきから何回見てんだ」

「そ、そんなに見てました?」

「少なくとも五回はな」

「……数えてたんですか?」

「暇だったからな」

バルドは、にやりと笑った。

「もう……からかわないでくださいよ!」

そう言いながら、ヴァンも笑った。

少しだけ、肩の力が抜けた気がした。

「ほら、冷めちまうぞ」

「はい!」

ヴァンは、残りの煮込みを口へ運んだ。

いつもと変わらない朝食。

いつもと変わらない、バルドとのやり取り。

それが、今朝は何よりもありがたかった。

ーーーー

「ごちそうさまでした!」

器を空にして、ヴァンは立ち上がった。

鞄を肩にかけ、店の裏口へ向かう。

ヴァンが扉に手をかけた、そのとき。

厨房から、バルドの声が飛んできた。

「おい、ヴァン!」

「はい?」

振り返ると、バルドが何かを投げてよこした。

「わっ!」

慌てて両手で受け取る。

布に包まれたパンだった。

まだ、ほんのり温かい。

「腹が減ったら食え」

「……ありがとうございます」

ヴァンは、パンを大切に鞄へしまった。

「それと」

「はい?」

「帰ってきたら、どうだったか聞かせろよ」

昨夜の言葉が、胸に浮かんだ。

『ただいまって言う勇気だけ、持ってこい。おかえりは、俺が言ってやる』

ヴァンは、ぎゅっと鞄の紐を握った。

「……はい!」

大きく頷く。

「いってきます!」

「おう。いってこい!」

バルドは、もう鍋の方へ向き直っていた。

ヴァンは扉を開けた。

朝の冷たい空気が、頬に触れる。

一歩、外へ出る。

背後で、扉が静かに閉まった。

ーーーー

石畳の道を歩く。

パン屋から漂う甘い匂い。

鍛冶屋から聞こえる槌の音。

荷馬車の車輪が、石畳を鳴らす音。

見慣れた朝の街は、いつもと何も変わらなかった。

大通りを抜けると、その建物が見えてきた。

冒険者ギルド。

重厚な樫の木の扉には鉄の補強が施され、何百人もの冒険者が通ってきたせいで、取っ手のあたりだけが鈍く光っている。

昨日と、同じ扉。

ヴァンは、その前に立った。

扉の向こうからは、今日も大勢の声が聞こえてくる。

「おい、北の遺跡の新しい通路、調査隊が入るらしいぞ!」

「本当か!? 俺も参加してえな!」

「やめとけよ。お前、この前の依頼で足くじいただろ!」

楽しそうな笑い声が響いた。

(……北の遺跡)

昨日も聞いた話だ。

崩れた壁の奥に、新しい階段が見つかったという。

その先には、何があるのだろう。

まだ誰も知らない部屋だろうか。

それとも、古い時代の何かが眠っているのだろうか。

(……見てみたいな)

胸の奥が、少しだけ弾んだ。

けれど、次の瞬間。

「そういや、昨日の討伐依頼、三人も怪我したんだってよ」

「三人? 結構やられたな」

「魔物の数が、予想より多かったらしい」

ヴァンの指先が、冷たくなった。

(……怪我)

当たり前だ。

冒険には、危険がある。

どれだけ準備をしても、思いどおりにならないことがある。

六年前。

父と母は、冒険に出たまま帰ってこなかった。

(……怖い)

心臓が、どくんと鳴った。

昨日と同じだ。

いや、昨日より怖いかもしれない。

今日は、本当にこの扉を開けるつもりで来たのだから。

ヴァンは、鞄から申請書を取り出した。

何度も見返した、自分の名前。

ヴァン・エンデリオン。

紙を持つ手が、小さく震えていた。

(……また、駄目なのかな)

扉を見上げる。

あと少し。

ほんの少し、手を伸ばせば届く距離なのに。

足が、動かない。

昨日も。

その前も。

何度も、ここで立ち止まってきた。

(……やっぱり、僕には)

そこまで考えて、ヴァンはぎゅっと目を閉じた。

浮かんできたのは、昨夜のエリシアの言葉だった。

『ヴァンさんが、本当はどうしたいのか。それだけは、忘れないでいてください』

本当は、どうしたいのか。

そんなの、ずっと前から決まっている。

(……行きたい)

知らない場所へ。

まだ誰も見たことのない景色の、その先へ。

そして、いつか。

もう一度、会いたい人たちがいる。

ヴァンは、ゆっくりと目を開けた。

鞄の中に、そっと手を入れる。

指先に触れたのは、布に包まれたパンだった。

まだ、少しだけ温かい。

『帰ってきたら、どうだったか聞かせろよ』

バルドの声が、耳の奥に蘇った。

(……バルドさん)

ヴァンは、申請書を鞄にしまった。

そして、扉を見つめる。

(……大丈夫)

そう思おうとして、やめた。

(……大丈夫じゃない)

怖さは、何一つ消えていない。

きっと、この扉を開けたあとも、消えはしない。

それでも。

行きたいという気持ちだけは、昨日までよりも、ずっとはっきりしていた。

あと、一歩。

たった一歩、踏み出せばいい。

ヴァンは、ゆっくりと手を伸ばした。

震える指が、取っ手に触れる。

冷たい。

心臓が、うるさいほど鳴っている。

息を吸う。

ゆっくりと、吐く。

そして――。

(……行こう)

ヴァンは、取っ手を握りしめた。

ぐっと、力を込める。

重い扉が、軋みながらゆっくりと開いていく。

隙間から、朝の光が差し込んだ。

大勢の冒険者たちの声が、一気に耳へ飛び込んでくる。

ヴァンは、開いた扉の向こうを見つめた。

何度も、開けることのできなかった扉。

ヴァン・エンデリオンは、その扉を初めて自分の手で開いた。

第一話 はじまりの一歩 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。