小さな願い
「……僕の、父さんと母さんです」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
エリシアは何も言わず、続きを待っていた。窓の外では、夜風が木々を揺らしている。
「六年前、二人とも冒険に出たまま、帰ってこなかったんです。一緒に行った仲間の人たちが、もう戻らないって……」
そこで、言葉が途切れた。
「冒険者でした、二人とも。帰ってくるたびに、いろんな場所の話をしてくれて」
父は、話すたびに腕を大きく広げた。
『こーんなに大きな魔物だったんだ!』
すると母が、決まって笑いながら首を傾げるのだ。
『この前は、もう少し小さかったでしょう?』
その光景を思い出して、ヴァンの口元が少しだけ緩んだ。
「だから僕も、二人みたいな冒険者になるのが夢でした。……今でも、そうです」
「…………」
「でも、怖いんです」
ヴァンは、足元に置いた鞄へ視線を落とした。
その中には、今日も出せなかった冒険者登録申請書が、折り畳まれたまま入っている。
「二人は、僕よりずっと強かったんです。それなのに、帰ってこなかった。だから、僕が行ったら……って考えると、足が動かなくなって」
「…………」
「ギルドの扉の前で、いつも止まっちゃうんです。もう、何度も」
笑ってみせようとして、うまくいかなかった。
「……情けないですよね」
「情けなくはありません」
静かな声だった。
顔を上げると、エリシアがまっすぐこちらを見ていた。
「怖いと思うのは、当然です。冒険は、どれだけ備えても、思いどおりにならないことがありますから」
励ましではなかった。
ただ、事実を並べるような声だった。
だから、ヴァンは不思議と、否定された気がしなかった。
「……エリシアさんも、怖いんですか?」
「怖いです」
迷いのない答えだった。
「今でも」
「え……」
あのエリシア・アストレインが。
何度も名前を聞いた、あの冒険者が。
「怖くなくなれば、強くなれると思っていた時期もありました」
エリシアは、窓の外へ目を向けた。
「でも、怖さは消えませんでした。ただ、怖いままでも、歩ける日があると知っただけです」
「……どうして、歩けるんですか?」
自然と、問いが口をついて出た。
エリシアは、少し黙っていた。
「……分からないことが、あるからです」
膝の上で、指を重ねる。
「何度考えても、答えが出ないことが」
それ以上は語らなかった。
「……だから、確かめたいんです」
ヴァンは、何も言えなかった。
怖くないわけじゃない。
この人にも、怖いことがある。
それでも、探している。
分からないまま、立ち止まりたくなくて。
胸の奥が、じんと熱くなった。
(――僕は)
窓の外で、星が静かに瞬いている。
「……僕も、会いたいです」
気づけば、口にしていた。
「父さんと母さんに。……もう一度、会いたい」
声が、少し震えた。
「冒険者になりたいのは、憧れだけじゃなかったんだと思います。知らない場所を見たいのも、本当です。でも、それだけじゃなくて……ずっと、会いたかったんです」
エリシアは、黙って頷いた。
「星降る湖を、探したいです。本当にあるのかどうか、自分の目で確かめたい」
言い切って、ヴァンはぎゅっと拳を握った。
それから、その拳を見つめて続けた。
「……でも、まだ怖いです」
またここに戻ってきてしまった、と思った。
なりたい。でも、怖い。
何度繰り返してきた言葉だろう。
「明日、またギルドに行っても、きっと怖いです。扉の前で、また止まっちゃうかもしれません」
「そうだと思います」
エリシアは、あっさりと答えた。
「大切なものを失う怖さは、簡単には消えませんから」
その声には、どこか遠くを見つめているような響きがあった。
けれど、すぐにエリシアはヴァンへ向き直った。
「だから、無理になくそうとしなくてもいいと思います。怖がる自分を、責める必要もありません」
「……はい」
「ただ」
エリシアは、一呼吸置いた。
「ヴァンさんが、本当はどうしたいのか。それだけは、忘れないでいてください」
冒険者になったほうがいい、とは言わなかった。
勇気を出して、とも。
大丈夫、とも。
ただ、それだけを言った。
ヴァンは、しばらく自分の手を見つめていた。
怖さは、まだ胸の中にある。
明日になっても、きっと消えてはいない。
けれど、今夜の「なりたい」は、昨日までとは少しだけ違っていた。
憧れだけではない。
もう一度会いたい、という、小さくて、でも消えない願いが、その中にあった。
「……話を聞いてくださって、ありがとうございます」
ヴァンは、小さく頭を下げた。
「いえ」
エリシアは、首を振った。
「私のほうこそ、お話ししてくださって、ありがとうございます。……こういう話は、あまり得意ではないので」
「僕もです」
ヴァンが言うと、エリシアはほんの少しだけ目を瞬かせた。
それきり、二人は黙った。
けれど、さっきまでの沈黙とは違っていた。
――そのときだった。
裏口の扉が開く音がした。
「おーい、ただいま!」
聞き慣れた声が、静かな店内に響いた。
ヴァンは、はっと顔を上げた。
(……ただいま)
六年前。
家の前で、待ち続けた言葉。
結局、聞くことのできなかった言葉。
それが今夜は、何でもない顔をして、扉の向こうから聞こえてきた。
「……おかえりなさい、バルドさん」
声に出すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
バルドは外套を脱ぎながら、二人を見回した。
そして、ヴァンの顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「……何かあったか?」
「いえ。何も」
「そうか」
バルドは、それ以上、何も聞かなかった。
いつものように、そう言っただけだった。




