帰る場所
カラン、カラン。
「ただいま戻りました!」
裏口の扉を開けると、香ばしい匂いがヴァンを迎えた。
煮込まれた肉と野菜の匂い。焼きたてのパンの香り。それに、何かを炒める軽快な音。
思わず、お腹が鳴りそうになる。
「おう、おかえり!」
厨房から顔を出したのは、大柄な男だった。
酒場の店主、バルド。
六年前からヴァンの面倒を見てくれている、家族のような存在だ。
「すみません! 遅くなりました!」
「ん? そうか?」
バルドは壁に掛かった時計へ目を向けた。
「まだ昼の仕込みには間に合うぞ」
「それに、もう始めてくれてたんですね」
「腹を空かせた連中は待ってくれねえからな!」
そう言って、豪快に笑う。
ヴァンもつられて笑った。
「すぐ手伝います!」
「おう。じゃあ、そこの野菜を頼む」
「はい!」
ヴァンは鞄を置き、手を洗ってから包丁を握った。
まな板の上に並んだ野菜を、慣れた手つきで刻んでいく。
トントントン、と規則正しい音が厨房に響いた。
「おっ、今日はずいぶん細かいな」
「えっ?」
「そいつ、煮込み用だぞ」
「あっ!」
見ると、切り終えた野菜がいつもより小さくなっていた。
「す、すみません! 考え事をしてて……」
「まあ、食えりゃ問題ねえよ」
バルドは笑いながら、鍋の蓋を持ち上げた。
白い湯気がふわりと広がる。
「ほら、こっちに入れちまえ」
「はい!」
ヴァンは刻んだ野菜を鍋へ移した。
バルドはそれ以上、何も聞かなかった。
今朝、どこへ行っていたのか。
どうして少し遅くなったのか。
ヴァンが話さないことを、無理に聞こうとはしない。
それが、バルドだった。
ーーーー
昼を過ぎる頃には、酒場はすっかり賑やかになっていた。
「おーい、ヴァン! こっちに水を頼む!」
「はーい! 少し待ってください!」
「こっちはパンのおかわりだ!」
「はい! すぐ持っていきます!」
「ヴァン! 俺の料理はまだかぁ?」
「もう少しです! 今、バルドさんが仕上げてますから!」
「おいおい! それ、さっきも聞いたぞ!」
「す、すみません!」
あちこちから飛んでくる声に、ヴァンは笑顔で応えていた。
この酒場には、冒険者の常連客が多い。
依頼を終えて帰ってきた者。
これから探索へ向かう者。
しばらく街に滞在して、次の目的地を探している者。
彼らが持ち寄る話は、ヴァンにとって何よりの楽しみだった。
「そういや、聞いたか? 東の森で、また魔物が増えてるらしいぞ」
窓際の席で、二人の冒険者が話していた。
「またかよ。最近多くねえか?」
「ああ。しかも、妙なことに群れの縄張りが変わってるらしい」
「縄張りが?」
料理を運んでいたヴァンが、思わず足を止めた。
「それって、どんな魔物なんですか?」
冒険者の一人が顔を上げる。
「おっ、ヴァン。気になるのか?」
「はい!」
「灰牙狼だよ。いつもなら森の奥にいる連中なんだがな」
「灰牙狼……」
ヴァンは少し考え込んだ。
「群れで行動する魔物ですよね。確か、獲物を追うときは何頭かが回り込んで、逃げ道を塞ぐって……」
「おっ、よく知ってるな!」
「前に教えてもらったので!」
ヴァンは嬉しそうに答えた。
「でも、縄張りが変わったってことは、何かに追われているんでしょうか?」
「……ほう?」
冒険者が面白そうに眉を上げた。
「どうしてそう思う?」
「えっと……灰牙狼は群れで狩りをするので、獲物が足りなくなった可能性もありますけど……」
ヴァンは言葉を選びながら続ける。
「森の奥から移動してきたなら、もっと強い魔物が現れたのかもしれません」
「なるほどなぁ」
冒険者は腕を組んだ。
「確かに、その可能性はあるか」
「でも、実際に見たわけじゃないので……違うかもしれませんけど」
「いやいや、そうやって考えるのは大事だぞ」
男は笑って、ヴァンの肩を軽く叩いた。
「魔物のことを知ってるだけでも、助かる場面はあるからな」
「……はい!」
ヴァンの顔がぱっと明るくなった。
「ヴァーン!」
厨房からバルドの声が飛んできた。
「料理! 冷めちまうぞ!」
「……あっ!」
ヴァンは手元の皿を見下ろした。
すっかり話に夢中になっていた。
「すみません! 今行きます!」
慌てて歩き出すヴァンの背中に、冒険者たちの笑い声が追いかけてきた。
「ははは! 相変わらずだな!」
「魔物の話になると、すぐ周りが見えなくなるんだからよ!」
「うぅ……気をつけます!」
ヴァンは耳まで赤くなりながら、料理を運んだ。
バルドはそんな様子を見て、呆れたように笑っていた。
「まったく。お前は本当に冒険の話が好きだな」
「……はい」
ヴァンは少し照れくさそうに頷いた。
「知らないことを聞くと、つい気になっちゃって……」
「そいつは悪いことじゃねえよ」
バルドは新しい皿を差し出した。
「ただし、仕事中はほどほどにな」
「はい!」
ヴァンは笑顔で皿を受け取った。
ーーーー
「なあ、ヴァン」
少し客足が落ち着いた頃、常連の一人、ジークが声をかけてきた。双剣を使う現役の冒険者で、ヴァンが憧れている人でもある。
「はい?」
「最近、稽古はどうだ?」
「あっ、はい! 毎朝続けてます!」
「ほう。ちゃんとやってんだな」
「この前教えてもらった足運びも、少しずつできるようになってきました!」
「そりゃいい!」
ジークは嬉しそうに笑った。
「でも、まだ動きが大きくなっちゃうんです。特に、右へ避けたあとに左の短剣を出すときが……」
「お前、またそんな細かいところまで考えてんのか?」
「えっ? 変ですか?」
「いや、感心してんだよ」
ジークは笑いながら首を振った。
「普通、そこまで気にするやつは少ねえからな」
「そうなんですか?」
「ああ。だが、悪くねえ。小さな癖が命取りになることもある」
ヴァンは真剣な表情で頷いた。
「……ありがとうございます。明日も意識して練習してみます!」
「おう! 今度また相手してやるよ!」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、今度は簡単には転ばせてやらねえぞ!」
「そ、それは困ります!」
「はは!」
ジークの笑い声に、周りの客たちも笑い始めた。
「……いつも、ありがとうございます」
ヴァンがぽつりと呟くと、ジークが不思議そうに首を傾げた。
「ん? どうした、急に」
「あっ、いえ! 何でもないです!」
「なんだよ、変なやつだな!」
また笑い声が上がった。
ヴァンも笑う。
けれど、その胸の奥には、今朝の出来事が残っていた。
冒険者ギルドの扉。
何度も開けようとして、結局開けられなかった扉。
ここにいる人たちは、みんなその向こう側へ踏み出した人たちだ。
自分だけが、まだそこに立っている。
ヴァンは、ほんの少しだけ視線を落とした。
「……ヴァン?」
「あっ、はい!」
「どうした? 疲れたか?」
「いえ! 大丈夫です!」
ヴァンは慌てて笑顔を作った。
「まだまだ働けますよ!」
「おっ、頼もしいねぇ!」
ジークは笑って、空になった皿を差し出した。
「じゃあ、こいつを頼む!」
「はい!」
ヴァンは皿を受け取り、厨房へ戻っていった。
カウンターでは、別の常連がバルドに声をかけていた。
「そういや、昔お前が――」
「おっと、こっちの酒が空いてるぞ!」
隣の男が慌てて割り込む。
「お、おう! そうだったな!」
バルドは何食わぬ顔で、新しい酒を注いだ。
皿を抱えたヴァンは、その会話に気づかないまま、厨房へ戻っていった。
カウンターの向こうで、バルドがその背中を見ていた。
何か言いたげに口を開きかけて――。
けれど、結局何も言わず、いつものように鍋をかき混ぜ始めた。
カラン。
入口の鐘が、小さく鳴った。
「いらっしゃいませ!」
ヴァンは顔を上げた。
扉の向こうに立っていたのは、白いフード付きのマントを羽織った、一人の少女だった。




