↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/14

初めての一撃

茂みの向こうで、二つの光が、ゆっくりと瞬いた。

動かない。

向こうも、こちらを見ている。

息が、喉の奥で引っかかった。

(逃げなきゃ。バルドさんも、そう言ってた)

けれど、足が、地面に縫いつけられたみたいに動かない。

膝が震えている。

袋を握る指が、白くなっていた。

(落ち着け。まだ、飛びかかってきてない)

必死に、本の記憶をたぐる。

灰牙狼(アッシュファング)。

灰色の毛並みと、鋭い牙。

獲物の様子をうかがい、隙を見せたところへ飛びかかる魔物。

そして、逃げる相手の背中を、ためらいなく追う。

(背中を見せたら、だめだ)

ゆっくりと、一歩、後ろへ。

踵が、枯れ枝を踏んだ。

乾いた音が、静かな森に響く。

次の瞬間、茂みが弾けた。

「……っ!」

灰色の塊が、一直線に飛んでくる。

ヴァンは、反射的に身を引いた。

鼻先を、牙がかすめる。

獣の匂いと、熱い息。

尻もちをついて、地面を転がった。

袋が、手から離れる。

採ったばかりの薬草が、散らばった。

(うそ、うそ、うそ……)

頭が、真っ白になった。

立たなきゃ。

逃げなきゃ。

そう思うのに、身体が、言うことをきかない。

灰牙狼(アッシュファング)は、着地して、すぐにこちらを向いた。

低く唸る。

黄色い目が、獲物を逃がさない、と言っていた。

ヴァンは、後ずさった。

背中が、木の幹に当たる。

(もう、下がれない)

そのとき。

頭の片隅で、誰かの声が、よみがえった。

『誰かと向き合うときは、まず足だ。目は、相手から離すな』

酒場の裏庭で、稽古をつけてくれた冒険者の、笑い混じりの声。

そうだ。

自分は、何度も、何度も、教わった。

足の置き方。

重心の落とし方。

目を、相手から離さないこと。

(……足)

視線は、獣から外さずに。

ヴァンは、ゆっくりと、右足を半歩引いた。

膝を、少しだけ曲げる。

手が、腰へ伸びる。

二本の短剣が、鞘から抜けた。

重みが、手に馴染む。

稽古で、何度も握ってきた重さ。

不思議と、震えが、少しだけ収まった。

(本には、なんて書いてあった)

灰牙狼(アッシュファング)は、獲物に飛びかかるとき、一度、姿勢を低く沈める。

そして、跳ぶ。

空中では、向きを変えられない。

(沈んだ。来る)

目を離さずにいたから、見えた。

後ろ足に、力が溜まる。

肩が、わずかに落ちる。

次の瞬間、獣が跳んだ。

ヴァンは、左へ、足を滑らせた。

紙一重で、牙が空を切る。

灰色の身体が、すぐ横を通り過ぎて、背後の木に、どすんと爪を立てた。

(今だ)

振り向きざま、右手の短剣を、獣の背へ振った。

けれど、腕が、伸びきらなかった。

怖くて、踏み込めなかった。

切っ先は、毛皮の表面を撫でただけだった。

獣が、怒りの声を上げる。

振り向いた牙が、今度は、ヴァンの左腕をかすめた。

「っ……!」

焼けるような痛み。

袖が裂け、血が滲む。

思わず、左手の短剣を取り落としそうになった。

(痛い、痛い、痛い)

手が、また震え出す。

目の前の獣が、二つにも、三つにも見える。

息が、うまく吸えない。

(だめだ、頭が、回らない)

戦ったことなんて、なかった。

稽古と、本物は、違う。

受付の人が言っていたとおりだった。

獣が、また沈む。

今度は、さっきより、速かった。

ヴァンは、とっさに、後ろへ跳んだ。

けれど、左足が、木の根に引っかかる。

「……っ!」

身体が、後ろへ傾く。

倒れる。

そう思った、その瞬間。

右足が、地面を蹴っていた。

考える前に、身体が動いた。

倒れる勢いに逆らわず、横へ、身体を投げ出す。

牙が、さっきまで顔のあった場所を、通り過ぎた。

地面に肩を打ちつけ、息が詰まる。

それでも、短剣は、離さなかった。

ヴァンは、身体を起こし、片膝をついた。

すぐ横では、飛びかかりをかわされた獣が、着地したところだった。

その頭が、こちらを向く。

稽古で、何度も言われた。

『相手が空振りした直後が、一番、隙ができる』

(……今だ)

さっきは、踏み込めなかった。

怖くて、腕が縮こまった。

今度は、違う。

怖いまま、足が、前へ出た。

右手の短剣を、体重ごと、獣の首元へ突き込んだ。

手応えが、あった。

獣が、短く鳴いて、身体を大きく震わせる。

ヴァンは、慌てて短剣を引き抜き、後ろへ下がった。

獣は、数歩、よろめいた。

それから、地面に崩れ落ちた。

やがて、その身体が、動かなくなった。

静寂が、戻ってくる。

ヴァンは、肩で息をしながら、その場に座り込んでいた。

短剣を握る手が、まだ震えている。

刃先に、赤いものがついていた。

(……倒した)

実感が、湧かなかった。

自分の手が、自分のものじゃないみたいだった。

(僕が……魔物を、倒したんだ)

腕の傷が、ずきずきと痛む。

袋の薬草が、散らばっている。

とにかく、立ち上がらなきゃ。

そう思って、膝に手をついた、そのとき。

背後で、ガサリ、と茂みが鳴った。

ヴァンは、凍りついた。

続けて、右手の奥でも。

左手の木立の向こうでも。

一つ、また一つと、草を踏む音が重なっていく。

低い唸り声が、聞こえた。

一つじゃない。

二つ、三つ、それ以上。

ゆっくりと、顔を上げる。

黄色い光が、薄暗がりの中に、次々と浮かび上がっていた。

二つ。

四つ。

六つ。

数えきれない。

灰牙狼(アッシュファング)の群れが、ヴァンを、ぐるりと囲んでいた。

ヴァンは、血のついた短剣を、握り直した。

背中は、木の幹。

逃げ道は、どこにもない。

(……だめだ)

さっきの一匹で、すでに、精いっぱいだった。

こんなの、勝てるわけがない。

(帰らなきゃ。夕飯、作っとくって、言ってくれたのに)

手が、震えていた。

それでも、ヴァンは、短剣を構え直した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。