帰る場所
低い唸り声が、森のあちこちから聞こえていた。
ヴァンは、二本の短剣を構えたまま、動けずにいた。
一匹。
また一匹。
茂みの陰から、灰色の身体が姿を現す。
(……こんなに)
さっきの一匹を倒すだけで、精いっぱいだった。
左腕は痛む。
足も、思うように動きそうにない。
(どうしよう……)
逃げ道を探す。
右には、低く身構えた一匹。
左にも、茂みの向こうに灰色の影。
背後からも、唸り声が聞こえてくる。
どこへ走っても、追いつかれる。
(……逃げられない)
喉が、からからに渇いていた。
それでも、短剣を下ろすことはできなかった。
(帰りたい……)
バルドの酒場。
いつもの厨房。
常連たちの笑い声。
夕飯を作って待っていると言ってくれた、あの人の顔。
(……帰らなきゃ)
ヴァンは、震える足に力を込めた。
そのとき、一匹が身を低くした。
(……来る!)
後ろ足が地面を蹴る。
灰色の身体が飛びかかってきた。
ヴァンは短剣を握りしめた。
避けなきゃ。
そう思った瞬間。
「伏せろ、ヴァン!」
聞き覚えのある声が、森に響いた。
考えるより先に、身体が反応した。
ヴァンは頭を抱えるようにして、地面へ身を沈めた。
その頭上を、何かが駆け抜けた。
鋭い金属音。
続いて、獣の短い悲鳴。
顔を上げる。
さっきまで自分に飛びかかっていた灰牙狼が、地面に倒れていた。
その向こうに、一人の男が立っている。
両手には、それぞれ一本ずつの剣。
見覚えのある、二刀の構え。
「……ジーク、さん?」
男が、ちらりと振り返った。
「よう、ヴァン」
いつものような、気さくな声だった。
「無事か?」
「え……あ、はい……!」
左腕に痛みが走る。
「……っ」
ジークの視線が、すぐにそこへ向いた。
「怪我してるな。動けるか?」
「は、はい。たぶん……」
「よし。じゃあ、そこから動くな」
ジークが前を向く。
森の奥から、また唸り声が聞こえる。
灰牙狼が、じりじりと距離を詰めていた。
「ジークさん! まだ、たくさん……!」
「ああ。見えてる」
落ち着いた返事だった。
まるで、目の前にいるのが魔物ではないみたいだった。
そのとき。
「おーい! ヴァン! 生きてるか!」
「怪我してるじゃねえか! おい、そっち行ったぞ!」
別の方向から、二つの声が響いた。
「……え?」
木々の間から現れたのは、酒場で見慣れた二人の冒険者だった。
いつも稽古をつけてくれる常連たち。
「な、なんで……?」
「話はあとだ!」
一人が、ヴァンの前に飛び出した。
迫ってきた灰牙狼を、長い剣の一撃で弾き飛ばす。
もう一人が、反対側から、槍を突き出した。
「おいおい、ずいぶん集まってやがるな!」
「数はいるが、こいつらなら問題ねえ!」
二人は声を掛け合いながら、次々と魔物を倒していく。
ヴァンは、呆然とその光景を見つめていた。
(……すごい)
さっきまで、自分を追い詰めていた魔物たち。
一匹を倒すだけで、あんなに苦労した。
何度も転び、怪我をして、ようやく勝てた相手。
それなのに。
(……こんなに、違うんだ)
一匹が、ジークへ飛びかかった。
ヴァンの身体が、思わず強張る。
けれど、ジークは慌てなかった。
ほんの半歩、身体をずらす。
牙が空を切る。
その瞬間、右の剣が閃いた。
別の一匹が、横から迫る。
ジークは振り返ることなく、左の剣を動かした。
獣の突進が止まる。
今度は二匹が、ほとんど同時に飛びかかった。
ジークは一歩踏み込み、片方の攻撃をかわすと、もう片方へ身体を向けた。
二本の剣が、流れるように動く。
一匹。
そして、もう一匹。
どちらも、ジークに触れることさえできなかった。
(……なんだ、これ)
速い。
けれど、それだけじゃない。
無駄な動きが、ほとんどない。
相手が飛びかかる前に、もう次の動きを決めているみたいだった。
(……僕と、同じ二本の剣なのに)
ヴァンは、自分の短剣を見た。
稽古なら、毎日してきた。
何度も、何度も。
それでも、さっきは思うように動けなかった。
なのに、ジークは。
(……すごい)
怖くないわけがない。
目の前で、魔物が次々と倒れている。
それなのに、ヴァンの胸に湧き上がってきたのは、恐怖とは違う感情だった。
(……僕も)
いつか。
(僕も、あんなふうに……!)
気づけば、震えていた手に、少しだけ力が戻っていた。
ーーーー
残り数匹になったところで、灰牙狼たちが、足を止めた。
唸り声が、怯えを含んだ低い音に変わる。
一匹が、背を向けた。
それにつられるように、残りも茂みの奥へ散っていく。
森に静けさが戻った。
「……よし。こっちは終わりだな」
常連の一人が、武器を下ろした。
もう一人が周囲を見回す。
「ほかには……いなさそうだな」
「油断すんなよ。もう少し確認してから帰るぞ」
ジークがそう言うと、二人は頷いた。
それから、ジークはヴァンのもとへ歩いてきた。
「さて、と」
ヴァンの前にしゃがみ込む。
「左腕、見せてみろ」
「あ……はい」
ヴァンは、おずおずと腕を差し出した。
破れた袖の下に、赤い傷が走っている。
ジークは傷の様子を確かめると、荷物から傷薬を取り出した。
「痛むか?」
「……ちょっと」
「ちょっと、ねえ」
ジークが苦笑する。
「顔に出てるぞ」
「……う」
ヴァンは、思わず目を伏せた。
ジークは傷を洗い、傷薬を塗り、手早く手当てを始めた。
「よく頑張ったな」
「……え?」
「そこに一匹、倒れてるだろ」
ジークが、少し離れた場所を顎で示す。
ヴァンが倒した灰牙狼だった。
「お前がやったのか?」
「……はい」
「初めての実戦だよな」
「……はい」
ジークは、短く頷いた。
「そっか」
それだけ言って、包帯を巻いていく。
ヴァンは、しばらく黙っていた。
けれど、どうしても聞きたいことがあった。
「あの……ジークさん」
「ん?」
「僕、全然……駄目でした」
ジークの手が、一瞬止まる。
「怖くて、動けなくて……」
言葉が、少しずつこぼれた。
「一匹倒すだけで、何度も転んで……怪我までして……」
自分の手を見る。
「ずっと稽古してきたのに、何もできなくて……」
「何も?」
ジークが、顔を上げた。
「……え?」
「一匹、倒したんだろ?」
「……はい。でも」
「じゃあ、何もできなかったわけじゃないな」
ヴァンは、言葉に詰まった。
ジークは包帯を結び終えると、ゆっくり立ち上がった。
「怖かったか?」
「……すごく」
「そうか」
ジークは、いつものように笑った。
「俺だって、初めて魔物と戦ったときは怖かったぞ」
「……ジークさんも?」
「ああ。そりゃあ、もう」
ヴァンは、思わず顔を上げた。
あんなに強い人でも。
初めてのときは、怖かったのだろうか。
ジークは、ぽん、とヴァンの頭に手を置いた。
「ま、今日は十分だ。帰ろうぜ」
「……はい!」
ーーーー
森を出るころには、陽がだいぶ傾いていた。
ヴァンは、常連の二人に挟まれるようにして、街道を歩いていた。
左腕には、ジークが巻いてくれた包帯。
採取用の袋には、三人が手伝って、拾ってくれたカレンタが入っている。
必要な量には、少し足りなかった。
(……依頼、失敗しちゃったな)
ヴァンは、袋を見下ろした。
すると、隣を歩いていた常連の一人が、顔を覗き込んできた。
「どうした? 浮かない顔して」
「……あの、薬草が……」
「ああ、依頼のか?」
「はい。あと少しだったんですけど……」
「なんだ、そんなことか」
男は、からからと笑った。
「生きて帰れたんだ。今日はそれで十分だろ」
「……でも」
「ま、報告はちゃんとしろよ。足りなかったもんは、足りなかったんだからな」
もう一人が、横から口を挟んだ。
「……はい」
ヴァンは頷いた。
失敗したことは、失敗したこと。
それでも、ちゃんと帰って報告する。
それも、冒険者の仕事なのだろう。
しばらく歩いてから、ヴァンはふと顔を上げた。
「……あの」
「ん?」
「どうして、皆さんが森に……?」
常連の二人が、顔を見合わせた。
「あー……」
「いや、その……なんだ」
なぜか、二人とも歯切れが悪い。
すると、少し前を歩いていたジークが、振り返った。
「街道で、この二人に会ってな」
「……街道で?」
「ああ。なんか、やけに急いでるから声かけたんだよ」
ジークは、にやりと笑った。
「そしたら、ヴァンが初めての依頼に出たって聞いてさ」
「……え?」
「俺もちょっと、様子を見に行こうと思ってな」
ヴァンは、二人の常連を見た。
「……もしかして」
「いやあ、偶然だなあ!」
「お、おう! 俺たちも、たまたま東のほうに用事があってよ!」
あまりにも不自然な返事だった。
ヴァンは、しばらく二人を見つめた。
それから。
「……ありがとうございます」
頭を下げた。
二人が、ぴたりと黙る。
「……助けに来てくれて」
ヴァンは、もう一度言った。
「本当に、ありがとうございました」
常連の一人が、困ったように頭を掻いた。
「……おう」
もう一人も、照れくさそうに笑う。
「ま、今度、酒場でなんか奢れよ」
「はい!」
「おい、怪我人にたかるなよ」
ジークが笑いながら言う。
「冗談だって!」
四人の笑い声が、夕暮れの街道に響いた。
ヴァンも、つられて笑った。
ーーーー
酒場の扉を開けると、いつもの匂いがした。
焼いた肉の香り。
煮込んだ野菜の匂い。
それから、聞き慣れた話し声。
「……ただいま」
ヴァンは、小さく声をかけた。
「おう」
カウンターの奥から、低い声がした。
バルドは、鍋の前に立っていた。
こちらを見て、ヴァンの腕の包帯に、目を留める。
一瞬だけ、言葉が止まった。
それから、ふう、と息を吐く。
「おかえり」
その一言に、胸が、じんと熱くなった。
「ただいま、バルドさん」
「飯できてるぞ。手、洗ってこい」
「……はい」
いつもと、同じだった。
変わらない声。
変わらない灯り。
それなのに、その「いつも」が、涙が出そうなほど、ありがたかった。
後ろで、常連たちが、ぞろぞろと入ってくる。
「いやあ、いい運動したな」
「腹が減った。バルド、俺たちにも飯を頼む」
バルドは、じろりと二人を見た。
「忘れ物は、見つかったのか?」
「あ、ああ。ばっちりだ」
「そうか」
バルドは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、棚から、いつもより少し大きめの皿を、二枚、取り出した。
「……すまねえな」
その様子をジークは離れた席から見て、ふっと笑った。
ーーーー
その夜の夕食は、いつもより、ずっと、美味しかった。
熱いスープ。
焼きたてのパン。
包帯を巻いた腕で、スプーンを持つのは、少し不器用だった。
それでも、ヴァンは、夢中で食べた。
「で、どうだった」
食後のお茶を出しながら、バルドが言った。
「初めての依頼は」
ヴァンは、少し考えた。
怖かったこと。
痛かったこと。
自分一人では、どうにもならなかったこと。
「……怖かったです。すごく。薬草も、少し足りませんでした」
「そうか」
「でも、一匹だけ、倒しました。ぎりぎりでしたけど」
バルドは、ヴァンの顔を、じっと見た。
「なら、胸張っとけ」
短い言葉だった。
けれど、ヴァンは、思わず顔を上げた。
「……はい」
「行ってよかったか」
「……はい。行ってよかったです」
その言葉は、自然に出てきた。
バルドは、何も言わなかった。
けれど、口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
ーーーー
部屋に戻ったヴァンは、窓辺に座って、夜空を見上げた。
星が、いくつも瞬いている。
冒険者証を、手のひらに乗せる。
銀色の札が、月明かりを受けて、淡く光った。
(今日、僕は、冒険者になった)
登録して、依頼を受けて、森へ行って。
魔物と戦って、倒して、囲まれて、助けられて。
いろいろなことが、一日のうちに起きた。
(……でも)
ふと、頭の隅に、疑問が浮かんだ。
灰牙狼は、どうして、あんなところにいたんだろう。
森の浅い場所。
街道のすぐ近く。
本来は、森の奥で暮らす魔物のはずなのに。
(何か、あったのかな)
気になる。
すごく、気になる。
けれど、今夜は、もう考えるのをやめた。
明日、起きたら。
ギルドに、報告に行こう。
そして、また、新しい依頼を見よう。
ヴァンは、冒険者証を、そっと胸の上に置いた。
そして、ゆっくりと、目を閉じた。




