↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/14

行ってこい

酒場の扉を開けると、いつもの匂いが迎えてくれた。

煮込みの匂いと、使い込まれた木の床。

朝、出ていったときと何も変わらない。

なのに、少しだけ違って見えた。

「おう、早かったな」

バルドは、カウンターの奥でジョッキを拭いていた。

顔は上げない。

昼の客はまばらで、窓際で常連が二人、静かに杯を傾けている。

「た、ただいま戻りました」

「おかえり」

ジョッキを拭く手は止まらなかった。

それだけの返事なのに、肩の力が少し抜ける。

ヴァンは、カウンターの前まで進んだ。

そして、懐から銀色の札を取り出し、そっと置く。

「……登録、してきました」

バルドの手が、止まった。

冒険者証を見る。

表に刻まれた、Ⅹの文字。

バルドはそれを、少しだけ長く見ていた。

「……そうか」

低い声だった。

それ以上、何も言わない。

けれど、ジョッキを置く手つきが、いつもよりゆっくりに見えた。

「おっ、ヴァン、冒険者になったのか!」

窓際の常連が、こちらを振り向いた。

もう一人も、杯を掲げる。

「やったじゃねえか! 今日は祝い酒だな!」

「昼間から飲む理由ができたな」

「お前らは、理由がなくても飲むだろうが」

バルドがぼそりと言うと、常連たちがどっと笑った。

ヴァンは顔を赤くして、頭を下げた。

「……ありがとうございます」

笑い声が収まったころ、バルドは冒険者証をヴァンのほうへ押し戻した。

「で、依頼は?」

「あ、はい。もう受けてきました」

「早えな」

「薬草カレンタの採取です。東の森で」

「ほう」

バルドは腕を組んだ。

怒るでも、止めるでもなく、ただ聞いている顔だった。

「戻りは?」

「日没までに、と言われました」

「なら、日が傾き始めたら切り上げろ。日没ぴったりに戻るつもりだと、何かあったときに間に合わねえ」

「……はい」

「持ち物は?」

「短剣は持っています。水袋と傷薬は、これから用意します」

「採った薬草を入れる袋は?」

「……あっ」

窓際から、くくっと笑う声がした。

「忘れんなよ」

「は、はい……!」

ヴァンは耳まで赤くなった。

言われなければ、気づかなかったかもしれない。

「東の森か」

常連の一人が、杯を置いた。

「最近は、妙な噂もあるからな」

「……はい。灰牙狼(アッシュファング)が、浅い場所でも見かけられているって聞きました。受付の人にも聞いたんですけど、ギルドは今、情報を確認中だって」

「ああ、噂は聞いてる」

バルドは、あっさりと答えた。

「だが、ギルドが確認中だと言ってるなら、それ以上のことは俺にもわからん。ただ、そう聞いたなら、やることは一つだ」

「街道から離れない、ですか」

「それと、怪しいと思ったら、迷わず引き返せ。それだけ守れ」

「……はい」

受付の女性に言われたことと、ほとんど同じだった。

同じことを、二人の人が言う。

それだけ、大事なことなんだろう。

ヴァンは、少しだけためらった。

「バルドさんは……止めないんですか?」

「止めてほしいのか」

「……いえ」

即答だった。

自分でも、驚くほどはっきりと。

バルドは、にやりと笑った。

「なら、準備してこい」

その一言が、背中を押した。

怖くないわけじゃない。

それでも、足は前を向いている。

「はい! すぐ用意してきます!」

ヴァンは、階段を駆け上がった。

ーーーー

部屋に戻って、荷物を広げる。

水袋に、水を入れる。

傷薬を、小さな容器ごと鞄の隅へ。

薬草を入れる袋も、今度はちゃんと用意した。

(……あとは)

腰の短剣を、鞘から少しだけ抜いて確かめる。

稽古で、何度も握ってきたものだ。

いつもと同じ重みが、手に馴染んだ。

窓の外には、青い空が広がっていた。

いつもと同じ空。

けれど今日は、その下に、自分の知らない景色が待っている。

胸が高鳴る。

怖さもある。

それでも。

(……行こう)

ヴァンは荷物を背負い、階段を下りた。

ーーーー

「準備はできたか」

「はい! 水と、傷薬と、袋と……短剣も!」

「よし」

バルドはカウンターの奥へ引っ込み、すぐに戻ってきた。

手には、布で包まれた小さな包みがある。

「持ってけ」

「これは……」

「昼飯だ。腹が減ると、頭が回らなくなる。判断が鈍るぞ」

受け取ると、まだほんのりと温かい。

ヴァンは、包みを両手で握った。

「ありがとうございます」

「礼はいい。ちゃんと食え」

ヴァンは包みを荷物にしまい、扉へ向かった。

「ヴァン」

「はい」

「行ってこい」

「……はい。行ってきます!」

「おう。夕飯は作っとく。腹空かせて帰ってこい」

その言葉に、胸の奥が、じんと温かくなった。

「……はい!」

ヴァンは、頭を下げた。

そして、扉の手前でふと振り返る。

バルドは、ジョッキを手にしたまま立っていた。

いつものように、何事もない顔で。

けれど、その手は、止まっていた。

(……バルドさん?)

声をかけようとして、やめた。

ヴァンは、小さく息を吸って、酒場の扉を押し開けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。