↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真実はもちろん何よりも尊いので  作者: 雁幸三


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/8

第六章

午前の仕事が終わるころには、ヤナの腕はまた重くなっていた。


皿を棚へ戻し、刻印具を布で拭く。ミルカは隣で椅子に腰を下ろしていた。


「今日もここまででいいって」


家令が帳面を閉じた。


「二人とも午後は休みなさい」


「はい」


診察後、医師の指示で家令は二人を水仕事から外した。


刻印具は二人の持ち場で、料理場の者は使い方を教わっていなかった。


その間、皿も銀器も手で洗い、刻印具は引き出しに入ったままだった。


その状態が五週間続いた。


途中で一度、ゲルトが来た。前と同じことを診て、前と同じことを言った。


頭の重さも、眠りの浅さも、食の細さも変わらなかった。


手洗いは手間がかかり、変わらないので、先週から元の持ち場と元の手順に戻っていた。


ヤナは前掛けを外した。半日勤務が始まってから一月半ほどたつ。朝は前より遅く起きられる。それでも頭の重さは残った。夜も途中で目が覚める。


ミルカが立ち上がった。


「寝る」


「また?」


「他にすることないし」


「私は街に出ようかな」


「元気だね」


「買うものがあるだけ」


ミルカは片手を上げて、自分の部屋へ向かった。


ヤナは昼を少し食べてから屋敷を出た。


市場へ向かう途中、市庁の近くに人が集まる掲示板があった。求人や貸家の紙に混じって、新しい紙が一枚貼られていた。


『黒い粉についての公開講義』


足を止めた。


下には時刻と場所が書かれていた。広場の向こうにある貸し講堂だった。始まるまで、まだ少し時間がある。


黒い粉なら毎日見ている。


ヤナは買い物を先に済ませ、紙袋を抱えたまま講堂へ入った。


席は半分以上空いていた。前から数えても二十人ほどしかいない。商人らしい男が前に座り、買い物籠を足元に置いた女が後ろにいた。空いた椅子は壁際まで続いていた。


前の机には細身の男が座っていた。壁際には真偽魔法の術者がいる。


男はハウフと名乗った。


机の上には小瓶が三つ並んでいた。どれにも黒い粉が入っていた。


ハウフは一つを持ち上げた。


「これは市内で販売されている浄化用の刻印具から集めたものです」


〈これは市内で販売されている浄化用の刻印具から集めたものです。〉


小瓶を戻し、別の紙を開く。


「この黒い粉には、第七類未同定残滓が含まれています。解析はまだ続いています。私は、これが長い年月のうちに人を害すると考えています」


〈この黒い粉には、第七類未同定残滓が含まれています。解析はまだ続いています。私は、これが長い年月のうちに人を害すると考えています。〉


ヤナは膝の上の紙袋を持ち直した。


ハウフは瓶を指で転がさず、机の中央に置いたまま話した。


黒い粉を水に混ぜたときのこと。熱したときのこと。別の魔法に触れさせたときのこと。粉の中に残るものが、これまで名前のついた残滓のどれとも合わないこと。


聞き慣れない言葉がいくつも出た。


前の席の男が手を上げた。


「その残滓は毒なのですか」


「そう断定できる段階ではありません」


〈そう断定できる段階ではありません。〉


「では、確認された害はあるのですか」


〈確認された害はあるのですか。〉


ハウフはすぐに答えた。


「確認された症例はまだありません」


〈確認された症例はまだありません。〉


男は腕を組み直した。


「その残滓が体の中にあるかどうかは、調べられるのですか」


〈その残滓が体の中にあるかどうかは、調べられるのですか。〉


「調べられません。この残滓は、人の体からは検出できません。血にも、肌にも出てきません」


〈調べられません。この残滓は、人の体からは検出できません。血にも、肌にも出てきません。〉


「では、この残滓による呪害として登録された人はいるのですか」


〈では、この残滓による呪害として登録された人はいるのですか。〉


「いません。現在の診断名には、この残滓によるものはありません」


〈いません。現在の診断名には、この残滓によるものはありません。〉


「先生が名前をつけて、その名で診てもらうことはできないのですか」


〈先生が名前をつけて、その名で診てもらうことはできないのですか。〉


「名をつけることはできます。私も仮の呼び方は使っています。ただ、診断としては書けません。登録された診断名ではありませんから」


〈名をつけることはできます。私も仮の呼び方は使っています。ただ、診断としては書けません。登録された診断名ではありませんから。〉


別の女が、家で使う分にはどうすればよいかと聞いた。


「使用をやめるべきだと、今ここで断言する材料はありません。私は長く触れ続けることを避けています」


〈使用をやめるべきだと、今ここで断言する材料はありません。私は長く触れ続けることを避けています。〉


ヤナは自分の指を見た。


朝、皿を傾ける。二度、三度とはじく。残った粉を布で払う。


頭が重い朝が続いていた。食べられない日が増えた。夜中に何度も目が覚める。昼には椅子を探すこともあった。


胸の下が一度だけ強く縮んだ。


膝の上で固まっていた指がほどけた。息を吸うと、さっきまでより深く入った。


顔を上げた。


ハウフは次の小瓶を示していた。


ヤナは手を上げかけた。肘が膝から離れたところで止まった。


何を聞くのか、うまくまとまらなかった。


隣の男が先に質問した。


講義はそのまま続いた。


ヤナはそれから何度かハウフの口元を見た。質問する者が変わるたび、空中の文字も消えては新しく出た。自分の番を作ることはできなかった。


終わると、聴衆は椅子を戻して外へ出た。


ヤナは出口へ向かう途中、前の机の脇を通った。机には小瓶と紙の束が残っていた。


一番上は『新規診断名 登録申請』だった。下の方に「確認症例」の枠があり、その脇に小さく「症例票を添えること。原因物または固有の徴候の直接確認を記したもの」と刷られていた。枠は空だった。


ヤナはそのまま通り過ぎた。


ハウフの前に二人ほど残ったが、ヤナは紙袋を抱えて講堂を出た。入ったときより、袋を胸の近くに持っていた。


帰りは市場を抜けた。


なんでも浄化魔法の店の前には、今日も人がいた。


フィオレが包み紙を折り、刻印具を一つ包んでいる。客は代金を渡し、受け取った包みを買い物籠へ入れた。


次の客が棚の品を指さした。


フィオレは笑って箱を下ろした。


ヤナは道の端で立ち止まった。


店先の籠には、同じ刻印具が何列も並んでいた。


後ろから荷車が来たので、ヤナは道を空けた。そのまま歩き出した。


屋敷へ戻ると、ミルカは台所の裏口に座っていた。髪をまとめ直しているところだった。


「寝てた?」


「ずっと」


「少し楽になった?」


「別に」


ヤナは買ってきたものを棚へ置いた。


「黒い粉の話を聞いてきた」


「黒い粉?」


「浄化のあとに出るやつ」


ミルカは紐を結び直した。


「それがどうしたの」


「中に、まだ何か分かってないものがあるんだって。長く触ってると、人に悪いかもしれないって言ってた」


「へえ」


「学者の人が」


「そう」


ミルカは立ち上がった。


「水飲んでくる」


「うん」


それで話は終わった。


翌日、家令から午後に残るよう言われた。


市への休務の届出を出すので、本人の署名が要るという。


小客間にはエギルと家令がいた。去年の登録更新で見たのと同じ術者も来ていた。


机の上に書類が二枚置かれていた。


エギルが先に読み上げた。


「二人には医師に診せました。呪害の診断は受けておりません」


〈二人には医師に診せました。呪害の診断は受けておりません。〉


家令が紙をヤナの前へ動かした。


「ここを読んで、その下に名前を」


ヤナは文を見た。


昨日の小瓶が浮かんだ。


ハウフの声も思い出した。


指は紙の端に置いたままだった。


「呪害の診断は受けていません」


〈呪害の診断は受けていません。〉


字幕はそのまま消えた。


ヤナは羽根ペンを取り、署名した。


続いてミルカも同じ文を読み、名前を書いた。


家令は二枚を重ねた。


「これで市へ出せる。そういえば、黒い粉のことで請願が出ているらしいな」


ヤナは顔を上げた。


「請願?」


「販売を止めるかどうか、市庁で審理するそうだ。傍聴はできると掲示にあった」


家令は書類を封筒へ入れた。


「休みの日だったかな」


ヤナは日を聞いた。


次の休みと重なっていた。


部屋を出る前に、もう一度だけ封筒を見た。


そこには自分の名前が入っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。