第六章
午前の仕事が終わるころには、ヤナの腕はまた重くなっていた。
皿を棚へ戻し、刻印具を布で拭く。ミルカは隣で椅子に腰を下ろしていた。
「今日もここまででいいって」
家令が帳面を閉じた。
「二人とも午後は休みなさい」
「はい」
診察後、医師の指示で家令は二人を水仕事から外した。
刻印具は二人の持ち場で、料理場の者は使い方を教わっていなかった。
その間、皿も銀器も手で洗い、刻印具は引き出しに入ったままだった。
その状態が五週間続いた。
途中で一度、ゲルトが来た。前と同じことを診て、前と同じことを言った。
頭の重さも、眠りの浅さも、食の細さも変わらなかった。
手洗いは手間がかかり、変わらないので、先週から元の持ち場と元の手順に戻っていた。
ヤナは前掛けを外した。半日勤務が始まってから一月半ほどたつ。朝は前より遅く起きられる。それでも頭の重さは残った。夜も途中で目が覚める。
ミルカが立ち上がった。
「寝る」
「また?」
「他にすることないし」
「私は街に出ようかな」
「元気だね」
「買うものがあるだけ」
ミルカは片手を上げて、自分の部屋へ向かった。
ヤナは昼を少し食べてから屋敷を出た。
市場へ向かう途中、市庁の近くに人が集まる掲示板があった。求人や貸家の紙に混じって、新しい紙が一枚貼られていた。
『黒い粉についての公開講義』
足を止めた。
下には時刻と場所が書かれていた。広場の向こうにある貸し講堂だった。始まるまで、まだ少し時間がある。
黒い粉なら毎日見ている。
ヤナは買い物を先に済ませ、紙袋を抱えたまま講堂へ入った。
席は半分以上空いていた。前から数えても二十人ほどしかいない。商人らしい男が前に座り、買い物籠を足元に置いた女が後ろにいた。空いた椅子は壁際まで続いていた。
前の机には細身の男が座っていた。壁際には真偽魔法の術者がいる。
男はハウフと名乗った。
机の上には小瓶が三つ並んでいた。どれにも黒い粉が入っていた。
ハウフは一つを持ち上げた。
「これは市内で販売されている浄化用の刻印具から集めたものです」
〈これは市内で販売されている浄化用の刻印具から集めたものです。〉
小瓶を戻し、別の紙を開く。
「この黒い粉には、第七類未同定残滓が含まれています。解析はまだ続いています。私は、これが長い年月のうちに人を害すると考えています」
〈この黒い粉には、第七類未同定残滓が含まれています。解析はまだ続いています。私は、これが長い年月のうちに人を害すると考えています。〉
ヤナは膝の上の紙袋を持ち直した。
ハウフは瓶を指で転がさず、机の中央に置いたまま話した。
黒い粉を水に混ぜたときのこと。熱したときのこと。別の魔法に触れさせたときのこと。粉の中に残るものが、これまで名前のついた残滓のどれとも合わないこと。
聞き慣れない言葉がいくつも出た。
前の席の男が手を上げた。
「その残滓は毒なのですか」
「そう断定できる段階ではありません」
〈そう断定できる段階ではありません。〉
「では、確認された害はあるのですか」
〈確認された害はあるのですか。〉
ハウフはすぐに答えた。
「確認された症例はまだありません」
〈確認された症例はまだありません。〉
男は腕を組み直した。
「その残滓が体の中にあるかどうかは、調べられるのですか」
〈その残滓が体の中にあるかどうかは、調べられるのですか。〉
「調べられません。この残滓は、人の体からは検出できません。血にも、肌にも出てきません」
〈調べられません。この残滓は、人の体からは検出できません。血にも、肌にも出てきません。〉
「では、この残滓による呪害として登録された人はいるのですか」
〈では、この残滓による呪害として登録された人はいるのですか。〉
「いません。現在の診断名には、この残滓によるものはありません」
〈いません。現在の診断名には、この残滓によるものはありません。〉
「先生が名前をつけて、その名で診てもらうことはできないのですか」
〈先生が名前をつけて、その名で診てもらうことはできないのですか。〉
「名をつけることはできます。私も仮の呼び方は使っています。ただ、診断としては書けません。登録された診断名ではありませんから」
〈名をつけることはできます。私も仮の呼び方は使っています。ただ、診断としては書けません。登録された診断名ではありませんから。〉
別の女が、家で使う分にはどうすればよいかと聞いた。
「使用をやめるべきだと、今ここで断言する材料はありません。私は長く触れ続けることを避けています」
〈使用をやめるべきだと、今ここで断言する材料はありません。私は長く触れ続けることを避けています。〉
ヤナは自分の指を見た。
朝、皿を傾ける。二度、三度とはじく。残った粉を布で払う。
頭が重い朝が続いていた。食べられない日が増えた。夜中に何度も目が覚める。昼には椅子を探すこともあった。
胸の下が一度だけ強く縮んだ。
膝の上で固まっていた指がほどけた。息を吸うと、さっきまでより深く入った。
顔を上げた。
ハウフは次の小瓶を示していた。
ヤナは手を上げかけた。肘が膝から離れたところで止まった。
何を聞くのか、うまくまとまらなかった。
隣の男が先に質問した。
講義はそのまま続いた。
ヤナはそれから何度かハウフの口元を見た。質問する者が変わるたび、空中の文字も消えては新しく出た。自分の番を作ることはできなかった。
終わると、聴衆は椅子を戻して外へ出た。
ヤナは出口へ向かう途中、前の机の脇を通った。机には小瓶と紙の束が残っていた。
一番上は『新規診断名 登録申請』だった。下の方に「確認症例」の枠があり、その脇に小さく「症例票を添えること。原因物または固有の徴候の直接確認を記したもの」と刷られていた。枠は空だった。
ヤナはそのまま通り過ぎた。
ハウフの前に二人ほど残ったが、ヤナは紙袋を抱えて講堂を出た。入ったときより、袋を胸の近くに持っていた。
帰りは市場を抜けた。
なんでも浄化魔法の店の前には、今日も人がいた。
フィオレが包み紙を折り、刻印具を一つ包んでいる。客は代金を渡し、受け取った包みを買い物籠へ入れた。
次の客が棚の品を指さした。
フィオレは笑って箱を下ろした。
ヤナは道の端で立ち止まった。
店先の籠には、同じ刻印具が何列も並んでいた。
後ろから荷車が来たので、ヤナは道を空けた。そのまま歩き出した。
屋敷へ戻ると、ミルカは台所の裏口に座っていた。髪をまとめ直しているところだった。
「寝てた?」
「ずっと」
「少し楽になった?」
「別に」
ヤナは買ってきたものを棚へ置いた。
「黒い粉の話を聞いてきた」
「黒い粉?」
「浄化のあとに出るやつ」
ミルカは紐を結び直した。
「それがどうしたの」
「中に、まだ何か分かってないものがあるんだって。長く触ってると、人に悪いかもしれないって言ってた」
「へえ」
「学者の人が」
「そう」
ミルカは立ち上がった。
「水飲んでくる」
「うん」
それで話は終わった。
翌日、家令から午後に残るよう言われた。
市への休務の届出を出すので、本人の署名が要るという。
小客間にはエギルと家令がいた。去年の登録更新で見たのと同じ術者も来ていた。
机の上に書類が二枚置かれていた。
エギルが先に読み上げた。
「二人には医師に診せました。呪害の診断は受けておりません」
〈二人には医師に診せました。呪害の診断は受けておりません。〉
家令が紙をヤナの前へ動かした。
「ここを読んで、その下に名前を」
ヤナは文を見た。
昨日の小瓶が浮かんだ。
ハウフの声も思い出した。
指は紙の端に置いたままだった。
「呪害の診断は受けていません」
〈呪害の診断は受けていません。〉
字幕はそのまま消えた。
ヤナは羽根ペンを取り、署名した。
続いてミルカも同じ文を読み、名前を書いた。
家令は二枚を重ねた。
「これで市へ出せる。そういえば、黒い粉のことで請願が出ているらしいな」
ヤナは顔を上げた。
「請願?」
「販売を止めるかどうか、市庁で審理するそうだ。傍聴はできると掲示にあった」
家令は書類を封筒へ入れた。
「休みの日だったかな」
ヤナは日を聞いた。
次の休みと重なっていた。
部屋を出る前に、もう一度だけ封筒を見た。
そこには自分の名前が入っていた。




