第五章
ヤナは階段の途中で立ち止まった。
二階へ運ぶはずの替えの布を抱えていた。いつもならそのまま上がる段数だったが、今日は手すりに指をかけた。頭の奥が重い。少し待ってから、残りを上がった。
朝も遅れた。鐘が鳴る前に起きたつもりだったのに、台所へ下りるころにはミルカがもう皿を並べていた。
「また寝過ごした?」
「少し」
ミルカは返事をしながら、匙を一本落とした。
金属の音が床へ響いた。
「ごめん」
「私に謝らなくていいよ」
ヤナが拾うと、ミルカは額を押さえた。
「朝からぼんやりする」
「私も」
二人で仕事を続けた。
昼前、ヤナは食器棚の上段から盆を取ろうとして、手を滑らせた。盆は棚板に当たり、端が鳴った。落ちはしなかった。
近くにいたサーラが振り向いた。
「大丈夫?」
「平気」
「この前も階段で座ってなかった?」
「ちょっと休んだだけ」
サーラはそれ以上言わなかった。
午後にはミルカが廊下で水差しを倒した。家令が通りかかり、二人を順に見た。
「具合が悪いなら言いなさい」
「少し疲れてるだけです」
ヤナが答えると、ミルカも頷いた。
その日の夕方、家令は二人を呼んだ。
「旦那様に話した。明日、医師が来る」
翌日の昼前、ゲルトが屋敷へ来た。
エギルは玄関広間で医師を迎えた。
「二人とも、何週間か調子が戻らないそうだ。診てやってくれ」
「分かりました」
「必要なら休ませる」
それだけ言って、エギルは家令に部屋を使わせるよう頼んだ。
診察には小客間が使われた。窓際に椅子を二つ置き、脇の机には水差しと布が用意された。真偽魔法の術者も壁際に座った。
先にヤナが椅子へ座った。
ゲルトは鞄から小さな砂時計と細い紐を出した。
「手を」
ヤナが右手を出すと、ゲルトは手首に指を当てた。砂時計を返し、しばらく黙って脈を数えた。
次に下まぶたを指で軽く下げた。
「上を見て」
ヤナは天井を見た。
「口を開けて。舌を出して」
言われた通りにする。
ゲルトは顔を近づけ、舌の色を見た。喉も見てから、手の甲を取った。
「袖を少し上げますよ」
腕の皮膚を肘まで見て、反対側も確かめた。
「灰色の斑はありませんね。灰疫の呪なら、先にここへ出ます」
ゲルトは自分の前腕を指で示した。
「灰疫の呪って、あの登録されるやつですか」
「そうです。市の簿冊に載せます。あなたには出ていません」
「あれは私が修業していたころに名がつきました。斑が出ますから、見ればすぐ分かります」
ヤナは頷いた。
今度は両手の爪を一本ずつ見た。親指の爪を押し、指先を軽くつまむ。
「痛いですか」
「はい」
「これは」
小指の先を触る。
「分かります」
「銀爪症なら爪の根が白く濁って、指先の感覚が鈍ります。そこも違います」
ゲルトは紐をしまい、机の紙に短く書き込んだ。
「熱は出ますか」
「たぶん、出てないです」
「夕方だけ熱くなることは」
「ないと思います」
「毎日、同じ時刻に寒気がして、そのあと熱が上がることは」
「ありません」
「沈み熱も違いますね。あれなら夕方の上がり方を何日か記録します。古い記録も残っています」
ゲルトはヤナの額へ手を当てた。
「昨夜は眠れましたか」
「寝ました。でも何回か起きました」
「夢は」
「よく見ます」
「食事は」
「前より少ないです」
「朝は食べましたか」
「パンを半分」
「仕事は普段と同じ?」
「だいたい同じです」
「忙しくなった時期は」
ヤナは少し考えた。
「春からずっと、そんなに変わってません」
「休みの日は何をしています」
「洗濯をして、買い物をして。あとは寝てます」
「昼まで眠ることは」
「最近はあります」
ゲルトは頷いて、その答えも紙へ書いた。
ゲルトはもう一度、目を見た。
「立ってください」
ヤナは立った。
「そのまま両手を前へ」
腕を伸ばす。ゲルトは指先を見てから、数歩歩くよう言った。ヤナが窓際まで歩いて戻ると、椅子へ座らせた。
「疲労でしょう。休みを取ってください」
〈疲労でしょう。休みを取ってください。〉
ヤナは字幕が消えるのを見た。
「寝れば治りますか」
「まずは数日、仕事を減らして、食べられるものを食べてください。眠れないのが続くならまた診ます」
「分かりました」
ゲルトは紙にもう少し書いた。
ヤナは膝の上で手を組んだ。
さっき聞いた三つの名が頭に残っていた。
「先生、私、呪われているのではありませんか」
ゲルトは顔を上げた。
「その可能性を示す臨床上の確認例はありません。現在確認されている症状は疲労で説明できます」
〈その可能性を示す臨床上の確認例はありません。現在確認されている症状は疲労で説明できます。〉
ゲルトは紙を置いた。
「少なくとも、私が今見たものは、さっき挙げた呪いのどれにも当たりません」
「そうですか」
ヤナは頷いた。
次にミルカが入った。
ヤナは部屋を出ず、壁際の椅子へ移った。
ゲルトはミルカにも同じことをした。
手首に指を当てた。目を見た。舌を見た。腕の皮膚を確かめ、爪を一本ずつ見た。
「灰色の斑はなし。爪の濁りもなし。指先は分かりますか」
「分かります」
「夕方に熱は」
「ないです」
「眠りは」
「浅いです」
「食事は」
「あんまり」
ゲルトは仕事量を聞き、朝起きにくいことも聞いた。
ミルカも数歩歩かされた。
診察が終わると、ゲルトは椅子へ戻った。
「あなたも疲労でしょう。休みを取ってください」
〈あなたも疲労でしょう。休みを取ってください。〉
ミルカがヤナを見た。
「同じだ」
「同じように働いてるもんね」
ヤナが言うと、ミルカは頷いた。
家令は戸口で聞いていた。
「休みはどうすればいいですか」
ゲルトが答えた。
「二人とも、数日は仕事を減らしてください。できれば半日は横になれるように」
家令はすぐに帳面を開いた。
「分かった。明日から午前だけにする」
「食事が戻らなければ、また呼んでください」
ゲルトは鞄を閉じた。
玄関まで家令が送っていった。
その夜、ヤナは夕食を少しだけ食べた。残したパンは包まず、そのまま下げてもらった。
部屋へ戻ると、まだ廊下に人の足音があった。
いつもならもう少し起きていたが、今日は灯りを消した。
布団へ入る。
医師に言われた通り、休めばいい。
ヤナは目を閉じた。




