第四章
翌週、ヤナは市場へ酒の注文を届けに出た。
昼を少し過ぎたころだった。通りは荷車が行き交い、店先には野菜の籠や布巻きが並んでいた。ヤナは注文を書いた紙を前掛けの内側に入れたまま、酒屋の戸を押した。
店の奥でボリスが帳面を開いていた。帳場の横にはニコが立っている。十四、五くらいの細い少年で、空になった瓶を木箱へ戻していた。
客はもう一人いた。レンツだった。
「だから、次の市まで待ってくれって言ってるだろ」
レンツが片手を帳場へ置いた。
ボリスは帳面から顔を上げた。
「前の分が残ってる。今日は出せない」
「一杯くらいいいだろ」
「だめだ」
レンツは舌打ちをした。
ボリスはニコへ顔を向けた。
「ぼさっとするな。裏の樽を見てこい」
ニコは肩をすくめた。
「はい」
帳場の奥の戸を開け、裏へ出ていった。戸の向こうに馬小屋の壁が少し見えた。
ボリスはヤナに気づいた。
「レンダール家か」
「はい。いつものを二本お願いします。明後日までに」
「分かった」
ボリスは帳面へ書いた。レンツはもう何も言わず、戸口へ向かった。
「じゃあな」
返事をした者はいなかった。
ボリスは棚の下から革袋を出し、売上の金貨を数えて帳場の金箱へ入れた。蓋を閉めてから、ヤナの注文紙を帳面へ挟んだ。
ヤナは店を出た。
翌朝、台所で家令が言った。
「酒屋のボリスが死んだそうだ。金箱がなくなっていたって」
ミルカが皿を持ったまま顔を上げた。
ヤナも手を止めた。
「昨日、行きました」
「それで呼びが来てる。昼から詰所へ行ってくれ」
ヤナは頷いた。
昼前のパンは一つ食べきれなかった。残りを布で包み、部屋へ置いてから詰所へ向かった。
詰所は市庁の裏手にある低い建物だった。入口の脇には濡れた外套を掛ける木枠があり、床には乾いた泥が細く残っていた。受付の男に名を告げると、奥の廊下を指された。
長椅子の端には、年配の女が一人座っていた。膝の上に籠を置き、取っ手を両手で持っている。ヤナが腰を下ろしても顔を上げなかった。廊下の窓は開いていたが、風はほとんど入らない。ヤナは前掛けの端を膝の上で折った。
奥の部屋の戸は開いたままだった。
机の向こうに役人が一人。壁際には濃紺の襟章をつけた術者がいた。
机の上には紙が二種類置かれていた。
一方には『参考人聴取書』、もう一方には『被疑者尋問書』と刷られていた。
先に呼ばれていたのはレンツだった。
役人は『被疑者尋問書』を手元へ寄せた。上から順に目を落とす。
「昨夜はどこにいましたか」
「昨夜はずっと家にいた」
〈昨夜はずっと家にいた〉
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
レンツは空中の文字を見た。
「賭場にいた。朝まで」
〈賭場にいた。朝まで。〉
役人は一行書いた。
「あなたはボリスを殺しましたか」
「俺は殺していない」
〈俺は殺していない。〉
役人は紙から顔を上げた。
「賭場の者に確かめる。それまでは帰せない」
レンツは鼻から息を吐いた。役人の横に立っていた男が戸口を示す。レンツは廊下の反対側へ連れていかれた。
レンツが連れていかれたあと、役人は使った紙を伏せた。次の紙を右の束から抜き、表題を上にして机へ置く。術者は椅子を動かさない。廊下では、靴底が板を擦る音だけがした。
次に近所の女が入った。
役人は『参考人聴取書』を取った。
「その晩、見たこと、聞いたことを」
「昨日の夕方、酒屋から言い争う声が聞こえました。男の人の声です」
〈昨日の夕方、酒屋から言い争う声が聞こえました。男の人の声です。〉
「昨日の夕方で間違いありませんか」
「間違いありません」
〈間違いありません。〉
女は迷わず答えた。
役人は二行を書き、紙を脇へ置いた。
女が出ると、ニコが呼ばれた。
昨日と同じ服だった。袖口に酒の染みが残っている。
役人はまた『参考人聴取書』を取った。
「店を閉めた時刻は」
「いつもどおり、晩の鐘のあとです」
〈いつもどおり、晩の鐘のあとです。〉
「昨夜、店に来た者は」
「レンツさんが来ました」
〈レンツさんが来ました。〉
「朝、店はどうなっていましたか」
「裏の戸が開いていて、旦那様が帳場で倒れていました」
〈裏の戸が開いていて、旦那様が帳場で倒れていました。〉
「なくなった物は」
「金箱と、銀の器です」
〈金箱と、銀の器です。〉
役人は一度だけニコの顔を見た。
「怖かったろう」
「怖かったです」
〈怖かったです。〉
ニコは膝の上で両手を握っていた。
「もういい。外で待っていなさい」
ニコが出てきたとき、ヤナの横を通った。昨日、裏の戸へ出ていったときと同じように肩を少し丸めていた。長椅子の反対端へ座り、両手を膝の間へ入れた。ヤナは一度だけ顔を向けたが、ニコは床を見ていた。
ニコが呼び戻されることはなく、ヤナの番になった。
椅子へ座ると、机の端に『参考人聴取書』が置かれた。
役人は紙を上から読んだ。
「店へ行った時刻は」
「昼過ぎです。屋敷の酒を頼みに寄りました」
〈昼過ぎです。屋敷の酒を頼みに寄りました。〉
「店にいた者は」
「ご主人と、ニコと、レンツという人です」
〈ご主人と、ニコと、レンツという人です。〉
「見たこと、聞いたことを」
「レンツという人が掛けを頼んで、ご主人に断られていました」
〈レンツという人が掛けを頼んで、ご主人に断られていました。〉
役人は書き終え、紙を回した。
「ここに名前を」
ヤナは署名した。
署名を終えると、役人は紙を乾かすため机の端へずらした。『参考人聴取書』の文字がヤナの側を向いたままになった。隣には、さっきレンツに使っていたもう一つの紙が伏せて置かれていた。
それで帰された。
数日後、もう一度呼びが来た。
同じ廊下の長椅子に座る。前より人は少なかった。
開いた戸の向こうの机には、土のついた金箱と銀の器が置かれていた。金箱の角に黒い湿った土が残っていた。
役人がニコを呼んだ。
前とは違う紙を取る。
『被疑者尋問書』。
役人は紙を開いたまま言った。
「金箱は、店の馬小屋の土間に埋まっていた」
ニコは机の上を見た。
「あなたはボリスを殺しましたか」
「俺じゃない」
〈俺じゃない〉
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ニコは何も言わなかった。
役人も少し待った。
字幕が消えたあと、役人は立ち上がった。ニコの左腕を取り、袖を肘まで上げた。
古い痣がいくつもあった。薄いものと、まだ色の残っているものが重なっていた。
役人は袖を戻した。
ニコは下を向いたままだった。
次に呼ばれたのは、前に言い争いを聞いたと言った女だった。
役人は一枚の紙を机に置いた。
「三日前の夕方、代金のことでボリスと揉めたと、荷を届ける男が言っている。記録にも日付がある」
女は紙を見た。
しばらくしてから顔を上げた。
「市の立った日でした。昨日じゃありません」
〈市の立った日でした。昨日じゃありません。〉
「そうか」
役人は紙へ書いた。
誰も女に何も言わなかった。
女が部屋を出るとき、前回と同じ籠を腕に掛けていた。戸口で役人に頭を下げ、そのまま廊下を歩いていった。追いかける者はいなかった。
廊下の奥で扉が開き、レンツが出てきた。役人の一人から帽子を返され、それをかぶった。
ヤナの前を通るとき、一度だけ詰所の奥を見た。
そのまま外へ出ていった。
ヤナも帰ってよいと言われた。
屋敷へ戻るころには夕方になっていた。
台所ではミルカが食器を棚へ戻していた。
「また呼ばれたの」
「うん」
ヤナは水差しを流しの脇へ置いた。
頭が少し重かった。椅子へ座るほどではない。
ミルカが布を渡した。
ヤナは受け取り、洗った皿の縁を拭いた。
窓の外で荷車が通った。
ミルカが次の皿を棚へ上げる。
ヤナも乾いた皿を重ねた。
残った水を流しへ捨て、鉢を伏せた。




