第二章
目を開けたとき、窓の外はもう明るかった。
ヤナは枕元へ手を伸ばし、置いてある小さな時計を見た。いつもなら台所にいる時刻だった。
掛布を押しのけて起きる。頭が重かった。昨夜も何度か目が覚めた。知らない通りを歩き続ける夢を見ていた気がするが、起きると細かいところは残っていなかった。
顔を洗い、髪をまとめる。
台所へ急ぐと、料理人はもう鍋を火にかけていた。
「寝坊した」
「珍しいね」
料理場の娘が振り返った。手は止めず、根菜を刻んでいる。
「ごめん」
「まだ間に合うよ」
朝食の片づけまで終わって、ようやくいつもの順に戻った。
昼になっても腹が空かなかった。パンを半分食べ、残りを布に包んだ。
「それだけ?」
向かいに座ったミルカが言った。
「朝が遅かったから」
「私も最近、あんまり入らない」
ミルカの皿にもパンが残っていた。
「暑くなってきたからかな」
「まだそんなに暑くないでしょ」
「じゃあ忙しいから」
ミルカが笑った。
ヤナも笑って、水を飲んだ。
その日の午後、二人で食器棚を片づけていると、ミルカが額を押さえた。
「頭痛い」
「私も朝からちょっと重い」
「寝た?」
「寝たと思う。変な夢で何回か起きたけど」
ミルカが手を止めた。
「私も」
「何の夢?」
「覚えてない」
「じゃあ違うやつだ」
ミルカはそう言って、また棚の奥へ手を入れた。
夕方にはサーラが二階と三階を何度も往復して、洗い上がった寝具を運んでいた。大きな籠を抱えたまま、階段の途中から下へ声をかける。
「庭の窓、開けたの誰?」
庭番の少年が外から顔を出した。
「俺です」
「虫入るから閉めて」
「今やります」
少年は剪定ばさみを腰へ戻して駆けてきた。
料理場の娘は夕食の鍋を二つ並べ、片方をかき混ぜながら、もう片方の火加減を見ていた。
洗濯場ではオルガが腰を伸ばしていた。
「また痛むの?」
ヤナが聞くと、オルガは腰を叩いた。
「昨日よりまし。雨が降らない日はね」
「洗濯物、持とうか」
「いいよ。あんたは自分の仕事しな」
オルガは籠を持ち上げた。階段だけはいつものように一段ずつ上がっていった。
数日しても、ヤナの朝は楽にならなかった。
目覚ましの前に起きる日もあったが、寝た気がしない。食事も以前ほど入らない。
ミルカも同じだった。
「休みの日、ずっと寝てた」
銀器を数えながらミルカが言った。
「いいな」
「よくないよ。寝ても眠いんだから」
「働きすぎなんじゃない?」
「ヤナもでしょ」
「うん」
その程度の話で終わった。
週の終わり、ヤナは屋敷の使いで市場へ出た。
紙包みの香辛料と、料理場から頼まれた干し果実を買う。帰りに布屋へ寄るよう言われていたので、大通りを東へ曲がった。
通りの途中に人が集まっていた。
店先に、見覚えのある刻印具が積まれている。
なんでも浄化魔法の店だった。
フィオレが客の前で白い布を広げていた。袖をまくり、刻印具を布へ当てる。汚れが消え、黒い粉が残った。
隣には真偽魔法の術者がいた。
「これで終わりです。あとは粉を払ってください」
フィオレが布を振る。
〈これで終わりです。あとは粉を払ってください。〉
「出てくる黒い粉はただのゴミです。触っても何ともありません。払っておけばそれで済みます。何も問題はありません」
〈出てくる黒い粉はただのゴミです。触っても何ともありません。払っておけばそれで済みます。何も問題はありません。〉
客の一人が笑った。
「うちじゃ手で払ってるよ。何度も触ったけど、何ともなかった」
〈うちじゃ手で払ってるよ。何度も触ったけど、何ともなかった。〉
隣の乾物屋の主人も口を挟んだ。
「うちは半年くらい使ってる。毎朝使うが、何も起きてないな」
〈うちは半年くらい使ってる。毎朝使うが、何も起きてないな。〉
フィオレは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。水も少なくて済みますから、台所では特に便利ですよ」
客が一つ買った。フィオレは刻印具を紙で包み、紐をかけた。
ヤナは人の間から店先を見た。
屋敷で使っているものと同じだった。
毎日使う店もあるらしい。
それなら珍しい道具でもなかった。
ヤナは布屋へ向かった。
頼まれていた生成りの布を受け取り、包みを抱えて店を出ると、入口にいた女主人が声をかけた。
「ヤナ、ちょっと顔が疲れてない?」
真偽魔法の術者は、向かいの店の手続きをしているところだった。術はまだ通りの一角にかかったままだった。
ヤナは足を止めた。
「どこも悪くありません」
〈どこも悪くありません〉
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「あら」
女主人が言った。
ヤナも文字を見上げた。
「少し疲れているだけです」
〈少し疲れているだけです。〉
「忙しいんだね」
「最近ちょっと」
「休める日に休みなよ」
「そうする」
ヤナは包みを抱え直した。
帰り道では、夕食に何が出るだろうと考えた。昼をほとんど食べていないのに、まだ腹は空いていなかった。
屋敷へ戻ると、料理場では皿が積み上がっていた。
ミルカが先に片づけを始めていた。
「遅かったね」
「市場が混んでた」
ヤナは荷物を渡し、前掛けを替えた。
棚から刻印具を取る。
皿へ当てると、薄い光が縁を走った。
黒い粉が残る。
ヤナは皿を傾け、指先で二度、三度とはじいた。残った分を布で払う。
次の皿を取るとき、腕が少し重かった。
「眠い」
ミルカが言った。
「私も」
「今日は早く寝よう」
「うん」
ヤナは刻印具を次の皿へ当てた。
黒い粉を指ではじき、布で払った。




