第一章
朝の台所には、まだ窓から白い光しか入っていなかった。
ヤナは棚から刻印具を下ろし、昨日の夕食で使った大皿を流し台へ並べた。縁に油が残っている。濡れ布巾で大きな汚れを拭ってから、刻印具の平らな面を皿に当てた。
細い光が縁を一周した。油の跡が消え、代わりに黒い粉がさらりと残った。
ヤナは皿を傾け、指先で二度、三度とはじいた。粉が流し台の端に落ちる。残った分を布で払って、皿を棚へ戻した。
隣ではミルカが銀の匙をまとめていた。
「こっち、あと六本」
「置いといて」
ミルカが匙を寄せる。ヤナは刻印具を一つずつ滑らせ、黒い粉を布で払った。布が重くなったところで桶の上ではたく。粉は底に落ちた。
ミルカはその間に、洗い上がった杯を数えた。足りない一つを探しに食堂へ行き、椅子の下から見つけて戻ってきた。
「誰よ、こんなとこ置いたの」
「昨日の最後、若様たちだったでしょ」
「じゃあ聞いても無駄か」
ヤナは笑って、杯にも刻印具を当てた。底に残った黒い粉を、さっきの布で払った。
廊下の向こうを、寝具係のサーラが籠を抱えて通った。庭番の少年は泥のついた靴のまま裏口から出ていった。二階では窓を開ける音が続いた。
料理場では朝の鍋が火にかかっていた。下働きの娘が根菜の皮をむき、料理人が塩壺の蓋を開けた。洗濯場からは水を張る音がした。ヤナとミルカは台所に残り、刻印具と布を交互に手へ取った。
食堂が片づくころには、銀器も大皿も棚に戻っていた。ヤナは刻印具を布で拭き、決まった引き出しにしまった。
朝食のあとは客間の花瓶を替えた。昼前には廊下の敷物を外へ出した。昼食が済めば、また皿が台所へ積まれた。ミルカが洗ったものを寄せ、ヤナが刻印具を当てた。黒い粉は布で払い、布は桶の上ではたいた。
午後、家令が使用人を一人ずつ帳場へ呼んだ。
今年の登録更新だった。
ヤナは洗った前掛けに替え、廊下の椅子に座った。前には四人いた。帳場の扉は開いたままで、中に長机が見える。家令のほかに、濃紺の襟章をつけた術者が座っていた。
先に入った庭番が短い文を読み上げた。
声とほぼ同時に、顔の前へ薄い文字が浮かんだ。
〈居住地に変更はありません。〉
文字は数秒で消えた。庭番が紙に署名する。
次の女中も、その次の下働きも同じだった。読み上げ、文字が浮かび、署名する。
廊下では、呼ばれるまで皆それぞれ手を動かしていた。サーラはほつれた枕袋を縫っている。料理場の娘は乾いた豆の筋を取っていた。ミルカは膝の上に家政帳を置き、朝の銀器の数を書き足していた。
「十二本で合ってた?」
ミルカが小声で聞いた。
「杯なら十二。匙は十八」
「そっちか」
ミルカが一度消して書き直した。
ヤナの番になった。
家令が紙を一枚、机の中央へ滑らせた。
「ここを読んで。そのあと下に名前を」
毎年やっていることだった。
ヤナは紙を両手で押さえた。
「呪害の診断は受けていません。確認済みの呪害歴はありません」
〈呪害の診断は受けていません。確認済みの呪害歴はありません。〉
空中の文字はそのまま消えた。
ヤナは羽根ペンを取り、名前を書いた。八年も書いているので、最後の払いまでほとんど同じ形になった。
「はい、次」
家令が紙を重ねた。
ヤナは壁際へ寄った。あとでミルカと一緒に戻るつもりだった。
次に入ったのは、洗濯場のオルガだった。腰を悪くしていて、寒い日は階段を一段ずつ上がる。今日は椅子に座るなり、腰へ手を当てた。
「朝からだめだわ」
「湿ってるからね」
家令はそう言って紙を渡した。
オルガは眼鏡を鼻の上へ押し上げた。
「現在、健康上の異常はありません」
〈現在、健康上の異常はありません>
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
オルガは浮かんだ文字を見て、家令も同じところを見た。
家令は紙の端をつまみ、ひっくり返した。
「ああ、古いのが混じってるな」
引き出しを開け、別の紙を出す。
「こっちで」
「また変わったの」
「去年からこれだよ」
オルガは小さく鼻を鳴らした。家令から新しい紙を受け取り、同じ場所を目で追った。
「呪害の診断は受けていません」
〈呪害の診断は受けていません。〉
今度は文字がそのまま消えた。
オルガは署名して立ち上がった。
「腰が悪いのは呪いじゃないものねえ」
誰にともなく言って、戸口へ向かう。
「次、ミルカ」
呼ばれて、ミルカがヤナの横を通った。
ヤナは廊下へ出た。窓から午後の日が入って、床板の端だけが明るい。向こうでは午前に干した布が取り込まれていた。寝具係が大きな籠を持ち上げ、庭番の少年が裏口の泥を掃いている。
オルガは洗濯場の方へゆっくり歩いていった。途中でサーラに呼び止められ、何か受け取っている。ヤナには白い糸巻きに見えた。
ミルカはすぐに戻ってきた。
「終わった」
「じゃ、食器棚やろうか」
二人で台所へ戻った。
昼に使ったカップが流し台に残っていた。ヤナは引き出しから刻印具を出した。カップの内側へ当てると、薄い光が走った。
黒い粉が底に残る。
ヤナは朝と同じようにカップを傾け、指先で二度、三度とはじいた。残った粉を布で払った。
ミルカが次のカップを寄せた。
「これ終わったら、銀の盆もお願い」
「はいはい」
窓の外では、夕食用の野菜を運ぶ荷車が門を入ってきていた。料理場から誰かが走っていく足音がした。ヤナは次のカップを受け取り、刻印具を当てた。




