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仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


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第81話 禁忌の契り

  

 男の胸から、血が滴った。

 ぽたり。

 石の祭台に、赤い雫が落ちる。

 煌淵(コウエン)は、ゆっくりと自分の胸元を見下ろした。

 銀の簪が、左胸に深く突き刺さっている。

 そして。

 嗤った。

『……妙だな』

 白瑶(ハクヨウ)は、荒い息を整えながら身構えた。

『我の心臓を狙ったのであろう?』

「……近づくな」

『狙いは正確だった。力も十分。あのまま突き立てれば、この人の身など容易く殺せたものを』

 男は、胸に刺さった簪へ指をかけた。

『なぜ、最後に手を逸らした?』

 白瑶は、答えなかった。

 答えられなかった。

 男の唇が、愉悦に歪む。

『……そうか』

 低い笑い声が、祭祀殿に響いた。

『殺せなかったのか』

「黙れ」

『この男を想って、手が鈍った』

「黙れと言っている!」

『軍神と呼ばれる女にも、そのような情があったとはな』

 白瑶は、男を睨みつけた。

 煌淵は、ゆっくりと簪を引き抜いた。

 赤い血が、銀の軸を伝う。

 だが。

 次の瞬間、白瑶は目を見開いた。

 傷口から、七色の光が滲み出している。

 裂けた肉が、ゆっくりと寄り合わさっていく。

 血が止まり、傷の縁が閉じていく。

 やがて、深々と突き刺さっていたはずの傷は、細い赤い筋を残すだけになった。

「……馬鹿な」

 白瑶は、思わず呟いた。

 煌淵は、何事もなかったかのように胸元を撫でた。

『この程度の傷で、我を殺せると?』

 白瑶は、唇を噛んだ。

 ――勝機を、逃した。

 あの一瞬。

 心臓を貫くことができていれば。

 少なくとも、この男の身体を止めることはできたはずだった。

 だが、自分は躊躇した。

 これまでのコウの声や気配を思い出して、手が鈍った。

 戦場では、幾度となく敵の隙を突いてきた。

 そして、知っている。

 ――一度逃した勝機が、二度訪れることなど、まずない。

 まして、相手は人ならざるもの。

 次に刃を届かせる機会など、あるのだろうか。

 白瑶は、奥歯を噛みしめた。

 そのときだった。

 煌淵の手に握られた銀の簪。

 月をかたどった小さな飾りが、淡く光った。

『……?』

 男の顔から、笑みが消えた。

 胸の傷から、細い銀色の光が滲み出している。

 七色の龍気が、激しく揺らいだ。

『……玲月(レイゲツ)め!』

 煌淵(コウエン)が、忌々しげに吐き捨てた。

『死してなお、我を縛るつもりか……!』

 男が、胸元を押さえた。

 その身体が、大きく震える。

 白瑶(ハクヨウ)は、息を呑んだ。

 ――何が、起きている?

 先ほどまでの余裕は、もはやなかった。

 男は、何かに抗うように歯を食いしばっている。

「……コウ?」

 その名を呼んだ瞬間。

 男の身体が、びくりと震えた。

『――その名を呼ぶな!』

「コウ!」

 七色の瞳が、激しく揺らぐ。

 赤。

 金。

 紫。

 幾つもの色が入り乱れ、その奥に、一瞬だけ青緑の双眸が覗いた。

「……せん、ぱい……」

 白瑶の息が止まった。

「……コウ?」

「……先輩……」

 聞き慣れた声だった。

 いつも自分を呼ぶ、あの声。

 白瑶は、思わず一歩踏み出した。

「コウ!私だ!分かるか!」

「……はい……」

「迎えに来た」

 青年の口元が、わずかに緩んだ。

 だが、その笑みはすぐに消えた。

「……先輩……」

 苦しげな声だった。

 青年は、胸元を押さえた。

 その指の間から、血が滲んでいる。

「……僕を……」

 声が、震えた。

「……僕を、殺してください」

 白瑶は、動きを止めた。

「……何を、言っている」

「……今なら……まだ……」

 青年が、苦しげに息を吸った。

「……あいつを……止められる……」

「なに?」

「……僕の、身体ごと……」

 青緑の瞳が、白瑶を見つめた。

「……殺して、ください……」

「馬鹿を言うな!」

 白瑶は、青年の肩を掴んだ。

「私は、お前を迎えに来たんだ。一緒に帰ろう」

 コウの瞳が、悲しげに揺れた。

 その声が、かすれる。

「……このままでは……あなたを……」

 青年は、唇を噛んだ。

「……僕は、あなたを、傷つけてしまう……」

 言葉が途切れた。

 白瑶は、何も言えなかった。

 その先を、聞きたくなかった。

「……お願いです……」

 コウが、懇願するように呟いた。

「……僕が、僕でいられるうちに」

 白瑶は、首を振った。

「……嫌だ」

「……先輩……」

「嫌だと言っている!」

 声が、祭祀殿に響いた。

 白瑶自身、驚くほど強い声だった。

「私は、お前を連れて帰る!」

 コウが、目を見開いた。

「必ずだ」

 白瑶は、青年の肩を強く掴んだ。

「だから、諦めるな」

 コウは、何かを言おうとした。

 だが。

 その顔が、突然、苦痛に歪んだ。

「……っ、あ……!」

「コウ!」

 青年の身体が、大きく震えた。

 青緑の瞳に、七色の光が滲み始める。

「……だめ、だ……」

 コウが、必死に首を振った。

「……先輩……逃げ……」

『――黙れ!』

 怒声が、祭祀殿を震わせた。

 コウの身体が、激しく仰け反る。

「コウ!」

 白瑶が手を伸ばした。

 だが。

 その手首が、強く掴まれた。

「――っ!」

 顔を上げた男の瞳は、再び七色に染まっていた。

『……愚かな』

 煌淵が、低く嗤った。

 白瑶は、歯を食いしばった。

「……コウを返せ」

『まだ言うか』

「返せ!」

 煌淵は、しばらく白瑶を見つめていた。

 そして。

 ゆっくりと、口元を歪めた。

『……なるほど』

 七色の瞳が、妖しく輝く。

『お前が、この男を殺せぬ理由が分かったぞ』

「…………」

『己の命よりも、この男が大切か』

「……黙れ」

『ならば、その情がどこまで続くか、試してみようではないか』

 白瑶の背筋を、冷たいものが走った。

『顧虹(コ・コウ)は我であり、我は顧虹なのだ。お前の愛しいこの顔と、この身体で』

 煌淵が、低く嗤った。

『お前が、いつまで我を拒めるか……な』

 煌淵は、ふと足元へ目を落とした。

 祭台を囲む方陣が、鈍い光を放っている。

『……ふん。人間どもが用意した贄の祭台か』

 男は、つまらなそうに鼻を鳴らした。

『こんな呪紋に囲まれて女を抱くなど、興が削がれるわ』

 次の瞬間。

 煌淵は、ハユを抱え上げた。

「――っ!離せ!」

 白瑶は、激しく身を捩った。

 だが、煌淵はびくともしない。

『暴れるな』

「降ろせ!」

『お前を喰らうのは、やめだ』

 白瑶の動きが、一瞬止まった。

『少なくとも、今宵はな』

 男は、祭壇の奥へ歩き出した。

 そこには、薄い帳を垂らした小部屋があった。

 煌淵が、白い帳を押しのける。

 その向こうには、古い寝台が置かれていた。

 白瑶は、息を呑んだ。

「……何をするつもりだ」

『分からぬか』

 煌淵は、薄く笑った。

『贄として喰らうには惜しい。ならば、別の形で我がものとするまでよ』

 身体を捻り、男の腕から逃れようとする。

 だが、遅かった。

 寝台の上へ投げ出される。

「――っ!」

 背中に衝撃が走った。

 白瑶は、すぐさま身を起こした。

 床へ飛び降りようとする。

 しかし、その行く手を煌淵が塞いだ。

「……退け!!」

『今宵のまぐわいを、覚えておけ』

 煌淵は、白瑶を見下ろした。

 男が、低く嗤った。

『我の龍気を、おまえの身体のすみずみまで刻んでやろう』

 その言葉に、白瑶の背筋が凍った。

 目の前にあるのは、三年間ともに戦ってきた顧虹の顔。

 だが、そこに浮かぶ笑みは、彼女の知る青年のものではなかった。

 コウならば、決して。

 決して、こんなことはしない。

「……コウ」

 白瑶は、かすれた声で呟いた。

 煌淵の瞳が、わずかに揺らいだ。

 だが、それも一瞬だった。

『……その名を、呼ぶなと言ったはずだ』

 白い帳が、下ろされた。


 ◇ ◇ ◇


 夜半を過ぎた頃。

 祭祀殿の外では、激しい雨が降り始めていた。

 雷鳴が、遠くの山々に響く。

 白瑶には、どれほどの時間が過ぎたのか分からなかった。

 乱れた寝台。

 散らばった衣。

 冷たい石床。

 誰かの腕。

 すべてが、悪夢のように重なっていた。

 何度も抵抗した。

 何度も逃れようとした。

 だが、そのたびに押さえ込まれた。

 戦場では、どれほど不利な状況に追い込まれても、必ず突破口を見つけてきた。

 敵の呼吸。

 重心。

 視線。

 足運び。

 相手が人間である限り、必ず隙はある。

 けれど、目の前の男には、それがなかった。

 そして、たとえ隙を見つけたとしても。

 ――殺せない。

 白瑶は、唇を噛んだ。

 目の前にあるのは、虹の顔だった。

 声も。

 手も。

 腕も。

 三年間、見慣れてきたものと何ひとつ変わらない。

 なのに。

 瞳だけが、違う。

 いつも柔らかく細められるはずの目が、冷たくこちらを見下ろしている。

 その口元に浮かぶ、不遜な笑み。

 コウならば、決して浮かべない笑みだった。

 ――違う。

 この男は、コウではない。

 何度も、そう言い聞かせた。

 だが、耳に届く声も、触れる手も、すべてがコウのものだった。

 それが、何よりも苦しかった。


今回は、白瑶にとって、あまりにも残酷な一夜となりました。

敵であれば、迷わず刃を向けられた。けれど、目の前にいるのは、誰よりも信頼し、大切に思っていたコウ。

そして、一瞬だけ戻ってきた彼が口にしたのは、「僕を殺してください」という、あまりにも悲しい願いでした。

白瑶は、コウを殺せない。コウもまた、自分の力で彼女を守ることができない。

互いを守りたいと願う二人の想いが、皮肉にも、逃れられない悲劇へとつながっていきます。

そして、銀の簪に秘められた玲月公主の力。三年前の祭祀殿で、いったい何が仕組まれていたのか。

物語は、あの夜の核心へと近づいていきます。

引き続き、二人の運命を見届けていただけたら嬉しいです。

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