第80話 簪(かんざし)
白瑶は、奥歯を噛みしめた。
男を知らぬ身だった。
女であることを隠し、長く戦場に身を置いてきた。
剣を取り、兵を率い、幾度となく死地を潜り抜けてきた。
その間、自分が女であることなど、ほとんど意識したことがない。
ただ、戦士として生きてきた。
だが、知らぬわけではなかった。
敵の捕虜となった女が、どのような目に遭うのか。
戦場で、嫌というほど見聞きしてきた。
だからこそ、覚悟もあった。
いかなる辱めを受けようと、心まで屈するつもりはない。
どれほどの拷問を受けようと、耐え抜く自信はある。
そして、苦痛のさなかにあっても、敵の隙を見極め、反撃の機会を計るだけの冷静さも。
たとえ自分の身に何が起ころうとも。
生きている限り、戦う。
その覚悟だけは、揺らがなかった。
――だが。
白瑶は、目の前の男を見上げた。
その顔。
その声。
自分を抱え上げている、その腕。
すべてが、見慣れたものだった。
――コウ。
傷つけば手当てをし、無茶をすれば小言を言い、それでも最後には必ず隣に立ってくれた青年。
その青年の身体が、今、自分を逃がすまいと抱きすくめている。
敵ならば、迷わず殺せた。
どれほどの屈辱を与えられようと、反撃の機会を待つことができた。
だが。
この腕を振りほどくために、虹の骨を折れるのか。
この拘束から逃れるために、虹の喉を潰せるのか。
そして、最後の手段として。
――この男の心臓を、貫けるのか。
白瑶は、唇を引き結んだ。
敵の力が恐ろしいのではない。
自分の身に何が起ころうと、耐える覚悟はある。
だが、その苦痛を与えるのが虹の身体であるということだけは、どうしても受け入れられなかった。
「……降ろせと言っている!」
白瑶は、再び男の首筋を狙った。
今度は指を揃え、急所へ突き込む。
だが、男はわずかに首を傾けただけだった。
『ほう。今のは、なかなか鋭かったぞ』
「……っ!……コウに、何をした!」
『おかしなことを言う』
男が、鼻で笑った。
『顧虹は我であり、我は顧虹なのだ』
「……返せ」
『何?』
「その身体を、コウに返せ」
男は、しばらく白瑶を見つめた。
それから、声を上げて笑った。
『ははは!面白い女よ!』
七色の瞳が、妖しく輝く。
『己の身を案じるより、この男を案じるか』
白瑶の身体が、冷たい石の上へ押し倒される。
「――っ!」
背中に、硬い感触が走った。
白瑶は、即座に身を起こそうとした。
だが、手首を押さえ込まれる。
膝を立て、男の腹を蹴り上げようとする。
それも封じられた。
男の影が、彼女を覆った。
目の前にいるのは、虹の顔をした何かだった。
その瞳には、底知れぬ欲望があった。
だが、それは自分の知る虹のものではない。
虹は、こんな目で自分を見たことなどない。
いつも少し困ったように笑い、無茶をすれば小言を言い、それでも最後には黙って隣に立ってくれた。
その虹の顔で。
その虹の声で。
見知らぬ何かが、自分を見下ろしている。
白瑶は、奥歯を噛みしめた。
「……退け」
『断る』
「……二度は言わぬ」
『ほう?』
男が、愉しげに目を細めた。
『まだ、抗うつもりか』
白瑶は、答えなかった。
そして、呼吸を整える。
相手の力は圧倒的。
正面からの攻撃は通じない。
ならば。
――隙をつくしかない。
男の意識は、彼女の顔に向いている。
その視線が、わずかに下がった。
白瑶は、息を潜めた。
右手の拘束が、ほんの少し緩む。
そのとき。
彼女の視界の端で、銀色のものが光った。
――……簪。
結い上げた髪に挿された、月華の簪。
朧が、龍王からの賜りものだと言って差し出したものだった。
細い銀の軸。
先端は、鋭く尖っている。
――使える。
白瑶は、目を伏せた。
呼吸を浅くする。
身体から、わずかに力を抜いた。
『……ほう?』
男が、眉を上げた。
『ようやく、諦めたか』
白瑶は、答えない。
男の手が、彼女の頬へ伸びた。
その瞬間。
白瑶は、右手を跳ね上げた。
指先が、髪に触れる。
銀の簪を、一息に引き抜いた。
しゃらり。
結い上げられていた長い銀髪が、ほどけた。
月光を受けた髪が、石の祭台へ流れ落ちる。
男の目が、わずかに見開かれた。
『……!』
白瑶は、簪を逆手に握った。
狙うのは、左胸。
心臓。
――一撃で、仕留める。
迷いはなかった。
いや。
迷ってはならなかった。
相手は、人ではない。
このままでは、自分は殺されるかもしれない。
何より、虹の身体を奪ったこの存在を、放置するわけにはいかなかった。
白瑶は、腕を振り下ろした。
銀の切っ先が、男の胸へ迫る。
だが。
その一瞬。
見慣れた顔が、目に入った。
焚火の前で、穏やかに笑っていた顔。
薬草を勝手に口へ運ぶ自分に、呆れたように小言を言っていた顔。
傷の手当てをしながら、何度も「無茶をしないでください」と繰り返した顔。
そして。
あの夜。
眠れぬ自分のために、夜明け近くまで笛を吹いてくれた顔。
――虹。
ほんの、わずかだった。
刹那の躊躇。
それだけで、十分だった。
白瑶の手が、わずかに逸れた。
心臓を狙ったはずの切っ先が、急所を外れる。
それでも。
銀の簪は、男の左胸へ深く突き立った。
『――ぐっ!』
低い呻き声が、祭祀殿に響いた。
男の身体が、大きく仰け反る。
白瑶は、簪を握りしめたまま、息を呑んだ。
その手に伝わる、確かな感触。
そして。
目の前にある、苦痛に歪んだ顔。
それは。
紛れもなく、顧虹の顔だった。
今回、白瑶を最も苦しめたのは、煌淵の圧倒的な力ではありません。
相手が敵であれば、迷わず急所を狙えたはず。どれほど追い詰められても、反撃の機会を逃さなかったはずです。
けれど、目の前にいるのは、誰よりも信頼していた虹の姿をした男。
守りたい相手を、自分の手で傷つけなければならない。
そして、ようやく手にした反撃の機会。白瑶の刃を鈍らせたのは、ほんの一瞬、脳裏をよぎった虹との記憶でした。
あの銀の簪が、この先どのような意味を持つことになるのか。
引き続き、二人の行く末を見守っていただけたら嬉しいです。




