第79話 喰うか、抱くか
男の手が、白瑶の顔へ伸びた。
『まずは、その無粋な面を外してもらおうか』
「……触るな」
白瑶は、身を捻った。
伸びてきた手を払い、すかさず肘を打ち込む。
だが、かわされた。
間髪を入れず、軸足を払う。
それも、読まれていた。
「……!」
白瑶は、後方へ跳んだ。
しかし、長い裾が足に絡む。
いつもの軍装ではない。
袖は広く、布は薄い。踏み込むたびに衣がまとわりつき、動きを妨げた。
剣も、短刀もない。
それでも、白瑶は怯まなかった。
踏み込みを変え、相手の懐へ潜り込む。
顎を狙った掌底。
男が、その手首を掴んだ。
『ほう』
七色の瞳が、愉快そうに細められる。
『人間の女風情が、なかなかやるではないか』
「離せ!」
白瑶は、手首を返して拘束を外そうとした。
だが、動かない。
まるで鉄の枷に嵌められたようだった。
――何という力だ。
次の瞬間、身体が強く引き寄せられた。
背中が、石柱へ叩きつけられる。
「――っ!」
肺から息が押し出された。
男の手が、再び白虎の面へ伸びる。
『さて。この下には、どんな素顔を隠しておる?』
「……やめろ!」
白瑶は、膝を跳ね上げた。
男が、わずかに身を引く。
その隙に逃れようとした。
だが。
ぱきん。
乾いた音がした。
白虎の面に、細い亀裂が走る。
「……!」
次の瞬間。
仮面が、二つに割れた。
白い破片が、石床へ散らばる。
からん、と最後の一片が転がった。
祭祀殿に、静寂が落ちた。
高窓から、雲の切れ間を抜けた月光が差し込む。
青白い光が、白瑶の素顔を照らした。
結い上げられた銀髪。
白磁のような肌。
長い睫毛に縁取られた、淡い菫色の瞳。
戦場では決して晒すことのなかった、女の顔だった。
男の動きが、ぴたりと止まった。
『……ほう』
七色の瞳が、ゆっくりと細められる。
『悪くない』
白瑶は、唇を噛んだ。
「……見るな」
『なるほど』
男が、低く嗤った。
『色気はない。が、妙に我をそそる』
「……貴様」
白瑶は、再び身を捻った。
男の顎を狙って掌底を放つ。
だが、その腕も容易く掴まれた。
強く引き寄せられる。
びり、と布の裂ける音がした。
「――っ!」
白い薄絹が、肩口から裂けた。
白瑶は、反射的に身を引いた。
だが、男の手は離れない。
七色の瞳が、彼女をじっと見つめていた。
先ほどまでとは、明らかに違う眼差しだった。
『……妙だな』
男が、低く呟いた。
『お前は、我に喰い殺されるために用意された贄のはず』
「……何?」
『贄の血をもって初契を成す。それが、お前のさだめだ』
男は、ゆっくりと首を傾げた。
『だが……』
その瞳に、奇妙な光が宿った。
戦場で幾度も向けられてきた殺意とは、まったく異なるもの。
白瑶は、本能的に身を強張らせた。
『……お前を殺すのが、惜しくなった』
「…………」
『このようなことは、初めてだ』
男が、愉しげに嗤う。
『幾千もの命を喰らってきた。人の命など、我にとっては塵芥に等しい』
七色の瞳が、白瑶の顔を捉えた。
『それなのに、どうしたことか』
男は、彼女の頬へ手を伸ばした。
白瑶は、顔を背ける。
『お前を喰い殺すよりも――』
その手が、彼女の腰を掴んだ。
『お前を抱くほうに、興をそそられる』
「ふざけるな!!」
白瑶は、肘を打ち込んだ。
男は、まるで意に介さなかった。
『ふむ。これは困った』
口調には、少しも困った様子がない。
『喰らえば、二度とお前の顔を見ることはできぬ。だが、壊してみたい気もするな』
「……何を言っている」
『おまえの猛る声も、苛立つ顔も、興味深い。さて、寝台ではどんな声で哭くのか・・・ともかくもこの衝動にしたがって抱いてみるのも一興か』
男の唇が、愉悦に歪んだ。
『生かすか、喰うか。おまえのからだを味わってから決めることにしよう』
「……離せ!」
白瑶は、男の腕を振り払おうとした。
しかし、次の瞬間。
身体が、ふわりと宙に浮いた。
「――っ!何をする!」
男が、彼女を抱え上げたのだ。
白瑶は、反射的に男の肩を打った。
続けて首筋を狙う。
だが、まるで岩を殴っているようだった。
『無駄だ』
男が、嗤う。
『人の身で、我に抗うなど、笑止』
「降ろせ!」
『威勢のよい贄よ。ますます気に入った』
男は、祭壇の中央へ歩き出した。
石床に刻まれた方陣が、二人の足元で淡く輝いている。
幾重もの円環を、七色の光が走った。
その中心には、低い石の祭台が据えられていた。
人が横たわれるほどの大きさ。
表面には、複雑な龍紋が刻まれている。
縁には、幾筋もの浅い溝が彫られていた。
その先は、祭台の四隅へと続いている。
白瑶は、それを見て息を呑んだ。
――供犠の台か。
石の溝には、乾いた暗褐色の染みが残っていた。
血だ。
ここで、何が行われてきたのか。
考えるまでもなかった。
では、これから何が始まるのか。
自分の身に、何が起ころうとしているのか。
――死か。
――凌辱か。
あるいは、その両方か。
第79話をお読みいただき、ありがとうございます。
「喰うか、抱くか」。
なんとも物騒な二択ですが、果たしてどちらに転ぶのでしょうか。
引き続き、ハユとコウの行く末を見守っていただけたら嬉しいです。
次話もどうぞよろしくお願いいたします。




