第82話 虹鱗の刻印
夜が、深まっていた。
祭祀殿の外では、雨が降り続いている。
時折、雷鳴が轟き、高窓から青白い稲光が差し込んだ。
白い帳の向こう。
古い寝台の上で、白瑶は意識を失っていた。
長い銀髪が、乱れた寝具の上に広がっている。
その頬は青白く、唇には血の気がなかった。
煌淵は、しばらく白瑶を見下ろしていた。
『…………』
奇妙な静けさだった。
つい先ほどまで、あれほど激しく荒れ狂っていた龍気が、今は嘘のように鎮まっている。
祭壇の方陣は、幾度も七色の光を噴き上げた。
そのたびに、石柱が震え、香炉の炎が揺らぎ、祭祀殿全体が低く唸った。
初契のために設えられた術式は、贄の血を受けることなく、何度も発動しかけていた。
だが、最後まで成就しなかった。
煌淵が、贄を喰らわなかったからだ。
『……ふ』
低い笑いが漏れた。
『まさか、これほどとはな』
煌淵は、自分の掌を見つめた。
まだ、わずかに震えている。
人の身に宿って以来、初めて知る感覚だった。
幾千年もの時を生きてきた。
人の命を喰らい、国を滅ぼし、神として畏れられてきた。
人間の女など、贄にすぎぬと思っていた。
それが。
たかだか人間の女ひとりとの交わりに、我を忘れるほど没頭するとは。
煌淵は、低く嗤った。
龍気は幾度も溢れ、方陣を駆け巡り、祭祀殿を震わせた。
その余波で、壁際の蝋燭はほとんど燃え尽きている。
『……不可解よ』
煌淵は、白瑶へ視線を戻した。
この女の、菫色の瞳。
幾度もその身体を穿たれながら。
最後まで屈しようとしなかった眼差し。
命を奪われる危険を知りながら、なお自分を睨み返してきた女。
『……蘇白瑶』
はじめて女の名を呼んでみた。が、返事はない。
望まぬ情事のあとの激しい消耗で、深く眠っている。
煌淵は、わずかに眉を寄せた。
先ほどまで、あれほど強く抵抗していた女が、今は身じろぎもしない。
その静けさが、妙に気に入らなかった。
怒り、睨み、抗おうとするこの女の眼を、もう一度見たかった。
龍気に当てられながらも、みじんも屈することをしなかった強靭な精神力。
その身を屈服させても、あの菫色の瞳から、反抗の光を消すことはできなかった。
『……まだ、足りぬ』
煌淵は、低く呟いた。
奇妙なほどの渇望を覚えて、煌淵は、しばらく白瑶を見つめていた。
そのときだった。
ずきん。
左胸に、鋭い痛みが走った。
『……っ!』
煌淵が、眉を寄せる。
簪に貫かれた傷。
すでに塞がりかけていたはずの傷口から、淡い銀色の光が滲み出していた。
『……またか』
銀色の光が、脈打つ。
その瞬間。
脳裏に、一人の女の面影が浮かんだ。
玲月公主。
月華の簪。
かつて、自分をその胎に宿した女。
『……おのれ、玲月』
煌淵が、低く唸った。
銀色の光が、胸元から広がっていく。
七色の龍気が、激しく揺らいだ。
『……ぐっ!』
身体の奥で、何かが目覚めようとしている。
この器の、もうひとりの主。
顧虹。
煌淵は、歯を食いしばった。
『……小賢しい!』
意識が、引き戻されていく。
七色の瞳が、激しく揺れた。
そして。
ふっと、その光が消えた。
「……っ、は……!」
男の身体が、大きく傾いた。
寝台の縁に手をつき、荒い息を吐く。
ゆっくりと顔を上げる。
「……先輩……?」
寝台に横たわる白瑶を見て、コウは息を呑んだ。
長い銀髪。
白い肌。
整った顔立ち。
その顔を覆っていた白虎面は、砕かれて床に散っている。
「……女……?」
呆然と呟く。
だが、驚きはすぐに別の感情へ変わった。
白瑶は、目を閉じたまま動かない。
その頬には血の気がなく、身体には痛々しいほどの交わりの痕跡が残っていた。
そして、コウの脳裏に、断片的な光景が蘇る。
白い帳。
拒絶する声。
感じたことのないほどの、己の、欲情と、衝動。
「……っ!」
何を。
自分は、このひとに、なにをした。
混乱の底に沈みそうになったが、その時間はなかった。
震える手を見つめ、唇を噛む。
胸の奥では、まだ煌淵の気配がうごめいている。
母、玲月の簪に遺る神気が、辛うじて煌淵の意識を押さえ込んでいるだけだった。
ふと、亡き母の言葉が蘇った。
『虹。お前の内には、神の力が眠っています。けれど、忘れないで。たとえ何者になろうとも、お前の心は、お前自身のものなのですよ』
幼い頃には、その意味が分からなかった。
だが、今なら分かる。
長くは、もたない。
――このままでは、また。
そのとき。
コウは、自分の胸の奥にあるものを感じ取った。
七色に輝く、一枚の鱗。
虹鱗。
煌淵の本鱗であり、その神力を統御する核の一部。
同じ身体に宿るコウには、それが何を意味するのか分かっていた。
――これを、切り離せば。
煌淵は、完全な力を取り戻せなくなる。
そして、その鱗を白瑶に託せば、彼女が神の力を封じる鍵となる。
コウは、静かに目を閉じた。
「……これしか、ない」
自分の胸に手を当てる。
意識を、神魂の奥へ沈めた。
次の瞬間。
「――っ!」
激痛が走った。
胸の奥から、命そのものを引き剥がされるような痛み。
『――何をする、顧虹!!』
からだの内側から、煌淵の怒号が響く。
『やめろ!それは我の・・・われらの本鱗ぞ!切り離せば、貴様もただでは済まぬ!』
コウは、苦しげに息を吐いた。
「もう二度と……このひとを、傷つけさせない」
掌の上に、小さな七色の鱗が現れた。
虹鱗。
それは煌淵だけのものではない。
神としての自分と、人としての自分をつなぐ、魂の一部でもあった。
白瑶の顔を見つめる。
初めて見る素顔だった。
いつも白虎面の奥に隠されていた、あの人の本当の顔。
――こんな形で知りたくはなかった。
誰よりも強くあろうとしながら、誰よりも多くの命を背負ってきた人。
不器用で、優しくて。
時折、自分にだけ弱さを見せてくれた人。
「……先輩」
コウは、そっと銀色の前髪を払った。
「……僕が、守ります」
虹鱗を、白瑶の額へ押し当てる。
その瞬間。
鱗が、白瑶の額へゆっくりと沈んでいく。
同時に、龍気が彼女の身体を巡り、心臓の奥へと流れ込んでいく。
『――貴様ぁっ!』
煌淵の絶叫が響いた。
『我の本鱗を、人間の女に渡すとは……!』
コウは、かすかに笑った。
「……これで、おまえは、……もう、この人を思いどおりにはできない」
その瞬間。
身体から、力が抜けた。
視界が、暗くなる。
頭の奥で、何かが崩れ始めていた。
記憶が、少しずつ遠ざかっていく。
青年の身体が、寝台の傍らに崩れ落ちた。
第82話をお読みいただき、ありがとうございます。
前話で、取り返しのつかない悲劇に見舞われたハユとコウ。
今回、ようやく意識を取り戻したコウは、自分が何をしてしまったのかを知ります。
けれど、彼に残された時間はわずかでした。
煌淵の本鱗であり、自らの魂の一部でもある「虹鱗」。
それを切り離すことは、コウ自身にとっても大きな代償を伴います。それでも彼は、迷わずハユに託しました。
「もう二度と……このひとを、傷つけさせない」
この言葉には、コウの後悔と、彼なりの精いっぱいの愛情を込めています。
そして、もう一つ。
今回、玲月公主の簪が再び重要な役割を果たしました。亡き母が息子に遺したものは、単なる形見ではなかったようです。
なぜ、虹鱗はハユに託されたのか。
そして、コウの記憶に何が起ころうとしているのか。
三年前の「あの夜」の真相は、まだ終わっていません。
次話もお付き合いいただけましたら幸いです。




