第77話 贄姫の支度
「……私と、何を話すというのだ」
「それは、陛下から直接お聞きくださいませ」
朧は、柔らかく微笑んだ。
「ただし、謁見には古来の作法がございます。恐れながら、軍装を解き、こちらでご用意した衣へお召し替えいただかねばなりません」
白瑶の目が、細くなった。
「……武器を預けるだけでは足りぬと?」
「ここは、龍王家の神域にございます。戦の装束のままお入りいただくことはできません」
「……なるほど」
白瑶は、周囲を見回した。
逃げ道はある。
石柱の配置も、建物の構造も、おおよそ把握した。
だが、虹がどこにいるのか分からない。
下手に騒げば、あいつの命が危うい。
「……わかった」
白瑶は、静かに答えた。
「ただし、コウの無事を確認できない限り、交渉には応じない」
「もちろんでございます」
朧は、恭しく頭を下げた。
「陛下も、きっとご理解くださることでしょう」
その声は、どこまでも穏やかだった。
まるで、これから起こることを、すべて知っているかのように。
◇ ◇ ◇
案内された支度部屋には、白い薄絹の衣が用意されていた。
白瑶は、黙って軍装を解いた。
甲冑を外し、剣を預ける。
腰の短刀も、隠し持っていた小さな刃も。
朧は、一つ一つ丁寧に確認した。
「……念入りなことだな」
「陛下の御前でございますから」
「私が王を斬るとでも?」
「まさか」
朧は、くすりと笑った。
「軍神と名高い蘇将軍であれば、素手でも十分に恐ろしゅうございますもの」
白瑶は、返事をしなかった。
用意された白い薄絹を羽織る。
軽く、柔らかな衣だった。
袖は広く、裾は長い。
戦うためには、あまりにも不向きな装束だった。
「……これでいいか」
「はい。たいへんお似合いでございます」
朧は、満足げに頷いた。
「それから、もう一つ」
差し出されたのは、細長い黒漆の箱だった。
「陛下より、蘇将軍へ賜りものにございます」
蓋を開く。
中には、一本の銀の簪が、柔らかな絹に包まれるように納められていた。
細身の銀の軸に、透かし彫りの飾りが施されている。
幾筋もの銀線が、三日月を思わせる優美な弧を描き、その内側には、朝露のような小さな真珠が一粒、そっと抱かれていた。
細工は驚くほど精緻で、銀線の一本一本が、まるで絹糸のように細い。
傾きかけた日の光を受け、銀の曲線が淡く輝いた。
華やかさを競うような品ではない。
だが、ひと目で、並の職人の手になるものではないとわかった。
「……これは?」
「謁見の証にございます。どうぞ、お髪にお挿しくださいませ」
「……男に簪を贈るとは、ずいぶん変わった趣向だな」
白瑶が皮肉めかして言うと、朧は微笑んだ。
「神前では、男も女もございません。清浄な心で臨むことが肝要にございます」
白瑶は、しばらく簪を眺めていた。
やがて、肩をすくめる。
「……まあ、髪をまとめるには便利か」
長い銀髪を無造作によく結い上げ、銀の簪を挿す。
幾筋もの銀線が描く三日月の内側で、小さな真珠が淡く光った。
朧は、その姿をじっと見つめた。
白い薄絹。
結い上げられた銀髪。
月華の簪。
そして、顔を覆う白虎の面。
かの簪は、ただの装身具ではない。
かつて、ある高貴な姫君が身につけていたもの。
その銀の細工には、今なお、持ち主の魂魄の名残がかすかに宿っているという。
そして、それこそが、古の邪龍に捧げられる贄姫の証でもあった。
封じられた虹龍が、その気配に触れたならば。
果たして、何が起こるのだろう。
――ふふ。これは、面白いことになりそうねえ。
朧は、込み上げる笑みをそっと飲み込んだ。
――贄姫の支度は、整った。
「……おや」
朧は、ふと白瑶の顔を見上げた。
「差し出がましいようですが、その仮面の下には、さぞお美しいお顔が隠されているのでは?」
そう言って、何気ない仕草で白虎の面に手を伸ばす。
その指先が触れる寸前、白瑶の手が素早く動いた。
ぱしり、と朧の手首を掴む。
「仮面は外さぬ」
低く、きっぱりとした声だった。
朧は、一瞬だけ目を丸くした。
それから、ふっと笑みを深める。
「まあ。これは失礼いたしました」
白瑶が手を離すと、朧は何事もなかったように袖を整えた。
「ふふ。ずいぶんと警戒なさいますね。素顔を見られてお困りになるようなことでもあるのですか」
「……詮索は無用だ」
「承知いたしました。どうぞ、ご安心くださいませ。無理にお外しいただくつもりはございません」
朧は、涼しげな目元を細めた。
その口元には、相変わらず楽しげな笑みが浮かんでいる。
白瑶は、わずかに眉を寄せた。
――妙な女だ。
仮面は、外すわけにはいかない。
その下に隠しているのは、単なる素顔ではなかった。
彪国の軍神・蘇白瑶が、女であるという秘密。
敵国の王宮で、そのような弱みを晒すわけにはいかなかった。
だが。
まもなく、その面さえも奪われることになるとは。
このときの白瑶は、まだ知らなかった。
白い薄絹に、月華の簪。
軍装も武器も奪われ、白瑶は知らぬ間に「贄姫」へと仕立てられていきます。
そして、どこまでも穏やかに微笑む朧。彼女が差し出した銀の簪には、ある人物の想いが秘められています。
白瑶が決して外そうとしない白虎の面。
その下に隠された秘密が暴かれるとき、何が起こるのでしょうか。
次話、物語は大きく動きます。




