第76話 龍王の招待状
三年前。
龍国との国境に近い山中に、古い祭祀殿があった。
深い森に囲まれたその建物は、かつて龍王家の神事に用いられたものだという。今では訪れる者もほとんどなく、崩れかけた石柱には蔦が絡み、庭の池には落ち葉が浮かんでいた。
蘇白瑶がそこを訪れたのは、遠征の帰路のことだった。
数日前。
副将の顧虹が、突然、軍を一時離れたいと言い出した。
急用ができた、とだけ告げて。
「どこへ行く」
そう尋ねた白瑶に、虹は困ったように笑った。
「龍国には知り合いがいるのです。どうしても顔を出さなければならなくなりまして」
すぐに戻ります、と。そう言い残して。
それが、最後に交わした言葉だった。
翌日になっても、虹は戻らなかった。
二日経っても、三日経っても。
そして四日目。
白瑶のもとへ、一通の密書が届いた。
差出人は、龍王。
封を切った白瑶は、そこに記された文面を、幾度か読み返した。
――顧虹の身柄は、龍国が預かっている。
――返還を望むならば、指定の場所へ来られたし。
――ただし、随行の兵は認めぬ。武器を持ち込むことも禁ずる。
白瑶は、しばらく黙っていた。
なぜ、龍王が虹を捕らえたのか。
虹は、自分の配下の一兵卒だ。
彪国の軍に属する、一人の将にすぎない。
龍王がわざわざ身柄を拘束する理由など、思い当たらなかった。
だが。
「……馬鹿が」
白瑶は、低く呟いた。
何をしている。
何に巻き込まれた。
そして、なぜ自分に何も言わなかった。
問いは、いくらでも浮かんだ。
白瑶は密書を畳み、懐へ収めた。
「……迎えに行く」
それだけだった。
◇ ◇ ◇
祭祀殿へ到着したときには、すでに日が暮れかけていた。
白瑶を出迎えたのは、一人の若い侍女だった。
「蘇将軍。お待ち申し上げておりました」
深々と頭を下げる女を見て、白瑶はわずかに眉を寄せた。
「……お前は」
「朧と申します」
女は、にこやかに微笑んだ。
年の頃は、白瑶とそう変わらないだろう。
すらりと背が高く、細身でしなやかな身体つきをしている。艶やかな黒髪を端正に結い上げ、飾り気のない侍女装束を身につけていた。
涼しげな目元に、すっと通った鼻筋。暗い灰褐色の瞳は、細められると、いっそう柔和な印象を与えた。
華やかな美貌というわけではない。
だが、どこか人目を引く、不思議な美しさがあった。
口元には、いつも何かを面白がっているような、かすかな笑みが浮かんでいる。
――妙な女だな。
白瑶が目を留めたのは、その顔立ちではなかった。
背筋は自然に伸び、肩には余計な力が入っていない。細身の体つきに反して、立ち姿には不思議な安定感があった。
足の置き方、重心の取り方。
どれも、ごく自然だ。
自然すぎるほどに。
――宮仕えの侍女にしては、ずいぶんと隙がない。
白瑶は、さりげなく女の顔を見た。
朧は、相変わらず穏やかに微笑んでいる。
その灰褐色の瞳が、ほんのわずかに細められた。
まるで、こちらの反応を楽しんでいるかのように。
「本日は陛下の仰せにより、ご案内を務めさせていただきます」
朧は、再び優雅に頭を下げた。
衣の裾が、かすかに揺れる。
その動きには、ほとんど音がなかった。
「虹はどこだ」
「ご安心ください。お怪我もなく、無事にお過ごしでございます」
「ならば、会わせろ」
「その前に、龍王陛下との謁見がございます」
「……謁見?」
「はい。陛下は、蘇将軍と直接お会いすることを望んでおいでです」
白瑶は、女をじっと見つめた。
――龍王が、私に会いたいだと?
彪国と龍国は、長年にわたって国境を争ってきた宿敵同士だった。
肥沃な土地、交易路、そして国境に点在する要衝。互いの領土と利権を狙い、幾度となく兵を交えてきた。
現在は停戦協定によって、かろうじて戦火が収まっている。
だが、それは和平とはほど遠いものだった。
双方ともに兵を退きながら、相手の出方を窺っている。ひとたび均衡が崩れれば、再び戦端が開かれてもおかしくない。
そして白瑶自身、龍国とは浅からぬ因縁があった。
かつて国境で幾度も龍国軍と刃を交え、その精鋭部隊を退けてきた。圧倒的な武力で敵陣を突破したこともあれば、奇策を用いて大軍を翻弄したこともある。
龍国にしてみれば、蘇白瑶はすこぶる目障りな存在に違いない。
機会さえあれば、排除したいと考えていても不思議ではなかった。
――その龍王が、わざわざ私を呼びつけるとはな。
しかも、虹を攫ってまで。
かの青年は、白瑶が最も信頼する部下だった。
戦場では常に傍らにあり、幾度となく命を預け合ってきた。顧虹という青年が白瑶にとって、ただの一兵卒ではないことを、龍国側はいかにして嗅ぎつけたのか。
知っていて攫ったのだとすれば――。
――人質か。
白瑶は、わずかに目を細めた。
領土の割譲か。交易権の譲渡か。それとも、停戦協定をめぐる新たな要求か。
あるいは、自分自身の身柄を差し出せというのか。
いずれにせよ、敵国の将を呼び寄せるために、その腹心を攫うなど、穏当な交渉とは到底思えない。
――何を企んでいる、龍王。
第76話までお読みいただき、ありがとうございます。
突然姿を消したコウ。そして、龍王から届いた一通の招待状。
敵国の王が、わざわざ人質を取ってまでハユを呼び寄せる理由とは何なのか。
ハユは罠の可能性を十分に理解しています。それでも、コウを迎えに行くことに迷いはありません。
そして、新たに登場した侍女・朧。
穏やかな笑顔の奥に、何かを隠しているような女性です。
ここから、三年前の事件の核心へと迫っていきます。
ハユを待ち受けているものは、果たして――。




