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仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


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第75話 決断の後

 一刻後。

 峡谷の入口は、炎に包まれていた。

 三百の兵は、最後の一人まで戦った。

 敵の先鋒を押しとどめ、本隊が撤退するための時間を稼いだ。

 その間に、ハユは七千を超える兵を峡谷の向こうへ逃がした。

 追撃してきた敵軍は、あらかじめ崩しておいた岩壁に阻まれた。

 作戦は、成功した。

 完全な勝利だった。

 味方の将兵たちは、歓声を上げた。

「さすがは軍神!」

「将軍のおかげで助かった!」

「白虎将軍、万歳!」

 ハユは、何も言わなかった。

 白虎面の奥で、ただ、燃える峡谷を見つめていた。

 三百。

 その数字だけが、頭から離れなかった。


 ◇ ◇ ◇


 その夜。

 陣営は、静まり返っていた。

 生き残った兵たちは、泥のように眠っている。

 明日になれば、再び進軍が始まる。

 そのために、今は休まなければならない。

 分かっていた。

 分かっているのに。

 眠れなかった。

 天幕の中。

 軍装を解くこともせず、白虎面をつけたまま、寝台に横たわっている。

 目を閉じると、峡谷が見えた。

 燃える岩壁。

 折れた軍旗。

 そして、最後に笑った若い兵の顔。

『将軍には、地獄へ来てもらっちゃ困るんです』

「…………」

 ハユは、ゆっくりと目を開けた。

 天幕の布が、夜風に揺れている。

「……先輩」

 入口から、声がした。

 コウだった。

「入りますよ」

「……ああ」

 青年は、片手に小さな盆を持っていた。

 湯気の立つ椀が、ひとつ。

「粥を作ってきました」

「……食欲はない」

「知っています」

 コウは、平然と答えた。

「だから、少しだけです」

 寝台の傍らへ腰を下ろす。

「昨日から、何も食べていないでしょう」

「……忘れていた」

「でしょうね」

 コウは、椀を差し出した。

 ハユは、しばらくそれを見つめていた。

「……お前は、食べたのか」

「はい」

「そうか」

 それだけ言って、椀を受け取った。

 温かかった。

 生姜と、少しの塩。

 それだけの、薄い粥だった。

 ひと口、口に運ぶ。

「……うまい」

「よかった」

 コウは、小さく笑った。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 天幕の外では、夜番の兵が交代する足音が聞こえていた。

 やがて、ハユがぽつりと呟いた。

「……三百だ」

 コウは、顔を上げた。

「はい」

「三百、死んだ」

「……はい」

「私が、命じた」

「はい」

 ハユは、椀を見下ろした。

「……間違っていたとは、思わない」

「はい」

「同じ状況になれば、私はまた、同じ命令を下す」

「はい」

「だが」

 そこで、言葉が途切れた。

 ハユは、しばらく黙っていた。

「……彼らは、もう帰らない」

 コウは、何も言わなかった。

「私が生かした七千には、明日がある。だが、わたしが切り捨てた三百の兵士たちの未来は」

 椀を持つ指に、わずかに力がこもった。

「……分かっている。これが、将の務めだ」

「…………はい」

「分かっているんだ」

 コウは、静かに手を伸ばした。

 ハユの手から、椀を受け取る。

 そして、寝台の脇に置いた。

「……先輩」

「なんだ」

「眠れないんですか」

「……ああ」

「そうですか」

 コウは、それ以上尋ねなかった。

 ただ、畳んであった薄い布を取り上げ、ハユの肩へそっと掛けた。

 しばらくして。

「……コウ」

「はい」

「何か、話をしてくれ」

 コウは、思わずハユを見つめた。

 意外だった。

 蘇白瑶という人は、いつも一人で考え、一人で決断してきた。

 どれほど過酷な選択を迫られようと、誰かに判断を委ねることはない。その結果がどれほど重くとも、責を負い、苦悩を胸の内に押し込めて、黙って耐える。

 コウは、そんな軍神の姿をずっと見てきた。

 今回の犠牲は、あまりにも大きかった。

 表情には出さずとも、相当に堪えているのだろう。

 それでも、誰かに弱音を吐くような人ではなかった。

 まして、こんなふうに、誰かの声を求めるなど。

 ――初めてだ。

 胸の奥に、かすかな熱が灯った。

 嬉しい、と思った。

 こんなときに不謹慎だと分かっていても、その気持ちを抑えられなかった。

 誰にも見せない弱さを、自分には見せてくれた。

 いつも遠く、高いところにいるように思えた人が、ほんの少しだけ、自分に寄りかかってくれた。

 それが、たまらなく嬉しかった。

 けれど、そんな思いを悟られるわけにはいかない。

 コウは、いつもどおりの穏やかな声で尋ねた。

「話、ですか」

「ああ」

「何の話を?」

「……何でもいい」

 ハユは、天幕の天井を見つめた。

「お前の故郷の話でも。昔の話でも」

「…………」

「……歌でもいい」

 コウが、瞬いた。

「歌、ですか?」

「ああ」

「僕が?」

「嫌か」

「いえ……」

 コウは、困ったように笑った。

「先輩は、時々とんでもないことを言いますよね」

「……そうか?」

「そうですよ」

 コウは、少し考えた。

 そして、腰の帯から細い竹笛を取り出した。

「……歌うのは、さすがに勘弁してください」

「笛か」

「はい」

「吹けるのか」

「少しだけ」

 コウは、笛を指先で回した。

「慕容王家の鳳(ホウ)将軍の琴には及びませんが」

「……ホウ?なぜあいつの話題を?」

「仲良しでしょう。才能豊かで先輩と親しいから、僕はあのひとがけっこう嫌いなんですけど」

「……?」

 ハユは、それ以上尋ねなかった。

 コウは、笛を唇へ当てた。

 静かな音が、天幕に流れた。

 細く。

 澄んで。

 夜の闇に、溶けていくような音だった。

 ハユは、目を閉じた。

 戦場の喧騒が、遠ざかっていく。

 剣戟の音。

 悲鳴。

 燃える峡谷。

 それらが、少しずつ薄れていく。

 代わりに、笛の音だけが残った。

 やがて。

「……コウ」

 小さな声がした。

 コウは、笛を下ろした。

「はい」

「……もう少し、そばにいてくれるか」

 コウは、静かに笑った。

「ええ。いくらでも」

 再び、笛の音が流れ始めた。

 その夜。

 軍神は、ようやく眠った。

 誰にも見せない疲れを抱えたまま。

 誰にも知られない涙を、流すこともなく。

 ただ、一人の青年の笛の音に包まれて。


 ◇ ◇ ◇


 水鏡の底で、ハユは、かすかに息を呑んだ。

 ――ああ。

 思い出した。

 あの笛の音を。

 あの夜の、温かい粥を。

 誰にも言えなかったことを、黙って聞いてくれた声を。

 いつからだったのだろう。

 戦場で何百人もの命を背負いながら、かの青年の前でだけは、少しだけ肩の力を抜くことができたのは。

 ――コウ。

 その名を、心の中で呼ぶ。

 すると。

 水鏡の奥で、笛の音がふっと途切れた。

 代わりに、別の声が響いた。

『……先輩』

 懐かしい声。

 けれど、その声には、かつて聞いたことのない切迫した響きがあった。

『僕を、殺してください』

 ハユの心臓が、跳ねた。

 水面が、黒く染まっていく。

 そして。

 三年前の、あの夜が始まった。


第75話までお読みいただき、ありがとうございます。


七千の命を救うために、三百の命を犠牲にする。


将としては正しい決断だったとしても、その重さまで消えるわけではありません。


誰よりも強く、誰よりも冷静であろうとするハユ。そんな彼女が、コウの前でだけ、ほんの少し弱さを見せた夜でした。


温かい粥と、静かな笛の音。


何気ないひとときですが、二人にとっては、きっとかけがえのない時間だったのだと思います。


そして、水鏡の中で蘇った、もう一つの声。


「僕を、殺してください」


次話から、三年前のあの夜の真相へと迫っていきます。

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