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仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


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第74話 ハユの禊~真相の入口 

 

 ハユは、白い禊衣の裾を持ち上げ、静かに池へ足を踏み入れた。

 水は、思いのほか冷たかった。

 足首から膝へ。

 そして腰へ。

 清水が肌を包むたび、身体の奥にまで冷気が染み込んでくる。

「池の中央まで進め」

 翠蓮の声に従い、ハユはゆっくりと歩いた。

「……ここでよいか?」

「うむ。目を閉じ、力を抜くのじゃ」

 ハユは、静かに目を閉じた。

 水の音が聞こえる。

 遠くで、翠蓮の唱える祭文が響いている。

「心を鎮めよ。何かが見えても、無理に追う必要はない。ただ、水に身を委ねるのじゃ」

 ――水に、身を委ねる。

 ハユは、ゆっくりと息を吐いた。

 不思議な感覚だった。

 水の冷たさが、次第に薄れてゆく。

 身体が軽い。

 まるで、深い水の中を漂っているようだった。

 そのとき。

 ――とくん。

 胸の奥で、何かが脈打った。

「…………?」

 ハユは、わずかに眉を寄せた。

 心臓の鼓動とは違う。

 もっと深いところ。

 身体の奥底で、何かが目を覚まそうとしている。

 ――とくん。

 再び、脈打つ。

 同時に、水面に小さな波紋が広がった。

「……む?」

 翠蓮が、顔を上げた。

 ハユの周囲だけ、水の色が変わり始めていた。

 淡い青。

 紫。

 金。

 そして、虹色。

 七色の光が、細い糸のように水中を巡っている。

「……これは」

 翠蓮の目元の神紋が、ひときわ強く輝いた。

 ハユは、まだ目を閉じていた。

 だが、その眉間には、深い皺が刻まれ始めていた。

 ――何だ。

 何かが、聞こえる。

 水の音ではない。

 人の声だ。

 遠い。

 ひどく遠いところから、誰かが自分を呼んでいる。

 ――先輩。

「…………!」

 ハユの指先が、ぴくりと震えた。

 今の声は。

 ――先輩。

 懐かしい声だった。

 何度も聞いた声。

 誰よりも、よく知っているはずの声。

 ――コウ……?

 その名を心の中で呼んだ瞬間。

 水が、震えた。

 虹色の光が一斉に強まり、池の底から無数の気泡が立ち上った。

「……おかしい」

 翠蓮が、低く呟いた。

 水鏡が、ハユの内にある何かと共鳴している。

「ハユ!聞こえるか!」

 返事はなかった。

 ハユは、目を閉じたまま立ち尽くしている。

 その顔から、みるみる血の気が引いていった。

 ――やめろ。

 何かが、近づいてくる。

 見たくない。

 思い出したくない。

 そんな思いが、胸の奥から湧き上がった。

 だが、何を思い出したくないのか、それすらわからなかった。

 ただ、恐ろしかった。

 理由もなく、身体が震え始めた。

 ――やめろ。

 水の底から、何かが浮かび上がってくる。

 暗い廊下。

 揺れる灯火。

 白い薄絹。

 銀の簪。

 そして。

 白虎の面。

「……っ!」

 ハユが、息を呑んだ。

 頭の奥で、鋭い痛みが弾けた。

 ――何だ、これは。

 知らない。

 いや。

 知っている。

 見覚えがある。

 あの廊下も。

 あの灯火も。

 銀の簪も。

 ――私は、あそこにいた。

 その瞬間。

 水鏡の底が、黒く染まった。

「……いかん!」

 翠蓮が、叫んだ。

「ハユ!水から上がれ!」

 だが、その声は届かなかった。

 意識が急速に遠ざかっていく。

 水の冷たさも。

 身体の重さも。

 すべてが消えてゆく。

 代わりに、耳の奥で、誰かの笑い声がした。

 女の声だった。

 柔らかく、どこか楽しげな声。

 ――さぞ、お美しいお顔が隠されているのでしょうねえ。

 ハユの喉が、ひゅっと鳴った。

 ――あの女。

 誰だった。

 あれは、いつのことだった。

 記憶の底に沈んでいた何かが、激しく揺さぶられる。

 忘れていたはずの声。

 忘れていたはずの匂い。

 忘れていたはずの恐怖。

 それらが、堰を切ったように押し寄せてきた。

 ――やめろ。

 ――思い出したくない。

 だが、もう止まらなかった。

 水鏡の奥で、何かが砕ける音がした。


 ◇ ◇ ◇


 3年前。

 ――炎が、夜の山を舐めていた。

 敵軍三万。

 味方、八千。

 退路は、北の峡谷ただひとつ。

 だが、その峡谷の出口には、すでに敵の騎兵が回り込んでいた。

「将軍!このままでは、全軍が包囲されます!」

 伝令の声に、ハユは答えなかった。

 白銀の白虎面の奥で、淡い菫色の瞳が地図を見下ろしている。

 敵の配置。

 風向き。

 峡谷の幅。

 味方の残存兵力。

 そして、敵がこちらの退路を断つまでの時間。

「……東の尾根は」

「敵の弓兵が占拠しております!」

「西は」

「崖です!馬も通れませぬ!」

 ハユは、しばらく黙っていた。

 やがて、地図の一点に指を置いた。

「……ここを塞ぐ」

 副官たちが顔を見合わせた。

「将軍?」

「峡谷の入口だ。敵の先鋒を足止めする。その間に本隊を北へ逃がす」

「しかし、あそこは袋小路です!」

「知っている」

 ハユは、淡々と答えた。

「一度入れば、退路はない」

 沈黙が落ちた。

 誰もが、その意味を理解した。

「……何名、必要でしょうか」

「三百」

「三百……!」

 副官の顔から血の気が引いた。

「将軍、それは……」

「三百で、一刻を稼ぐ」

「ですが、その三百は……!」

「戻れない」

 ハユは、言い切った。

 あまりにも静かな声だった。

「三百を捨てれば、七千を救える。ここで迷えば、八千すべてが死ぬ」

 誰も反論できなかった。

 理屈は、正しい。

 あまりにも、正しかった。

「将軍、死士を募りますか」

「……いや」

 ハユは首を横に振った。

「私が選ぶ。三百の命を捨てさせる責は、私にある」

 その声には、迷いがなかった。

 やがて、三百の兵が集められた。

 歴戦の者たちだった。

 彼らは、将軍の命令を聞き、誰一人として取り乱さなかった。

 ただ、一人の若い兵が尋ねた。

「……将軍。俺たちは、戻れないのですね」

「そうだ」

 ハユは、嘘をつかなかった。

「お前たちには、死地へ向かってもらう」

 兵たちの間に、重い沈黙が落ちた。

 ハユは、ゆっくりと頭を下げた。

「……すまない」

 白虎面の下から、低い声が響く。

「お前たちの命を、私の判断で捨てる」

 誰も動かなかった。

「この先、何千の命を救おうと、お前たちを見捨てた事実を背負い続ける」

 ハユは、顔を上げた。

「いずれ私も死ぬ。そのときは、地獄で詫びよう」

 若い兵が、ふっと笑った。

「……将軍」

「なんだ」

「それは、困ります」

「……?」

「将軍には、地獄へ来てもらっちゃ困るんです」

 隣の老兵が、笑った。

「そうだ。俺たちが命を張るのは、将軍に生きてもらうためでもある」

「…………」

「だから、どうか」

 老兵は、深々と頭を下げた。

「俺たちの命を、無駄にしないでください」

 ハユは、何も答えなかった。

 ただ、静かに頷いた。

 それが、彼らとの最後の別れになった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


いよいよ、ハユの禊が始まりました。


今回描いたのは、かつて《軍神》と呼ばれたハユの、将としての決断です。


三百の命を犠牲にして、七千を救う。


戦場では、何が正しいかを考えるだけでなく、誰を生かし、誰を死地へ送るのかを決めなければならないこともあります。


ハユは、その責任から決して逃げません。けれど、冷徹な判断を下せることと、心が痛まないことは別なのだと思います。


そして、禊によって呼び覚まされる記憶は、まだ始まったばかり。


次回は、軍神としての顔とは異なる、ハユのもう一つの姿を描きます。


引き続き、お付き合いいただければ嬉しいです。

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