第73話 ネネの禊
緑龍家の屋敷は、静寂に包まれていた。
夜の帳が下り、庭を巡る水路には、青白い灯火が点々と浮かんでいる。
風はない。
聞こえるのは、水の流れる音ばかりだった。
屋敷の最奥にある神殿。
その中央には、龍脈から湧き出る清水を湛えた、円形の池があった。
幾代もの巫女が神意を受け、穢れを祓うために用いてきた、緑龍家の聖域である。
池のほとりには、翡翠色の祭服をまとった翠蓮が立っていた。
昼間のような尊大な物言いも、菓子を巡って騒ぐ少女の面影もない。
黒髪を高く結い上げ、額には細い銀の飾り。目元の神紋が、暗がりの中で淡く輝いている。
「……では、始めるぞ」
翠蓮が、静かに告げた。
「まずは寧々(ネネ)。その後に、ハユ。そなたの禊を行う」
ハユは短く頷いた。
ネネは、すでに白い薄絹の禊衣に着替えていた。
天龍の意識は、慈雨と翠蓮の術によって外へ顕現させてある。
天鱗核そのものは、ネネの内に残されたままだ。
翠蓮は、池の縁に膝をついた。
両手を合わせ、低い声で祭文を唱え始める。
聞き慣れない言葉だった。
それは歌のようでもあり、絶え間なく流れる水の音のようでもあった。
やがて、翠蓮の左の目元の神紋が、鮮やかな翡翠色に輝き始めた。
水面に、小さな波紋が広がる。
一つ。
二つ。
三つ。
幾重にも重なった波紋が、池の中央に淡い光の輪を描いた。
「寧々。水へ入るがよい」
「……うん」
ネネは、ゆっくりと池に足を踏み入れた。
水は腰のあたりまであった。
翠蓮が祭文を唱えるたび、淡い金色の光がネネの周囲を巡ってゆく。
水面に、淡い金色の光が広がった。
ネネは、静かに目を閉じた。
冷たいはずの水が、不思議と温かい。
耳元で、誰かが囁いているような気がした。
――恐れることはない。
それがテンテンの声なのか、それとも水そのものが語りかけているのか、ネネには分からなかった。
やがて、水面に映っていた自分の顔が、ゆっくりと揺らぎ始めた。
代わりに現れたのは、見覚えのある白い天井だった。
――あれは。
玄国の、病児院。
薬草を煎じる、苦い匂い。
薄暗い部屋に並ぶ寝台。
窓の向こうで、風に揺れる木々。
そして。
『……姉様』
幼い自分が、寝台の上で手を伸ばしていた。
けれど、その腕はひどく細く、思うように持ち上がらない。
胸が苦しい。
息をするたびに、身体の奥が痛む。
隣の寝台では、同じ年頃の子どもが泣いていた。
廊下の向こうから、誰かの咳が聞こえる。
――いや。
――もう、いやだ。
幼いネネは、何度もそう思った。
どうして、自分だけが。
どうして、みんなのように走れないのだろう。
窓の外では、子どもたちが遊んでいた。
笑い声が聞こえる。
その声が、ひどく遠かった。
ふいに、景色が変わった。
今度は、土埃の舞う鍛錬場だった。
まだ幼さの残る銀髪の少女が、木剣を握っている。
――姉様。
少女は、何度も剣を振っていた。
一度。
二度。
十度。
百度。
腕が震えても、足がもつれても、決してやめようとしない。
「もう休め」
誰かが言った。
「その身体では、これ以上は無理だ」
けれど、少女は首を横に振った。
「……まだ、できます」
手のひらには、血が滲んでいた。
それでも、木剣を握り直す。
「もっと強くならなければ」
少女は、息を切らしながら呟いた。
「……あの子の薬を、買えないから」
ネネの胸が、きゅっと締めつけられた。
――姉様。
知っていた。
姉が、自分のために戦っていたことは。
まだ子どもだった頃から、血の滲む手で剣を振り続けていたことも。
水面が、また揺れた。
今度は、雨の日だった。
病児院の扉が開く。
泥に汚れた外套をまとった少女が、息を切らして駆け込んできた。
「カナル!」
その声を聞いた途端、幼いネネの顔が輝いた。
「姉様!」
少女は、寝台のそばに膝をついた。
「すまない。遅くなった」
「ううん。待ってた!」
姉の手は、冷たかった。
指には、小さな傷がいくつもあった。
けれど、その手が額に触れると、不思議と安心した。
「具合はどうだ?」
「今日はね、少し歩けたの」
「そうか」
姉は、嬉しそうに笑った。
「偉いな、カナル」
その笑顔が、ネネは大好きだった。
また、景色が変わる。
春。
夏。
秋。
冬。
幾度も季節が巡る。
戦から戻るたびに、姉は病児院を訪れた。
あるときは、珍しい菓子を持って。
あるときは、遠い土地の話を聞かせてくれた。
あるときは、疲れきって、寝台のそばで眠ってしまった。
――姉様。
ネネは、水の中で唇を噛んだ。
姉は、いつも笑っていた。
自分の前では、決して弱音を吐かなかった。
けれど。
その笑顔の裏に、どれほどの苦労があったのだろう。
どれほどの痛みを、隠していたのだろう。
次々と押し寄せる記憶の中で、ネネは幼い自分の声を聞いた。
『姉様。わたし、早く元気になりたい』
『……ああ』
『そしたら、姉様と一緒に、いろんなところに行きたい』
『そうだな』
『約束だよ?』
銀髪の少女が、そっと小指を差し出した。
『約束する』
その指が、幼い自分の指に絡む。
――ぽたり。
水面に、雫が落ちた。
いつの間にか泣いていた。
悲しいからではない。
苦しかった日々も、寂しかった夜も。
すべて、今の自分につながっている。
そして、そのどの記憶にも。
必ず、姉がいた。
『……ネネ』
どこか遠くで、テンテンの声がした。
『過ぎた苦しみを、いつまでも抱えておく必要はない』
金色の光が、水の中をゆっくりと巡った。
『じゃが、忘れずともよい。そなたを支えたものまで、洗い流す必要はないのじゃ』
ネネは、小さく頷いた。
病に伏していた幼い自分。
剣を振り続けた姉。
雨の日の再会。
交わした約束。
そのすべてが、光の粒となって水の中へ溶けていく。
消えてしまうのではない。
痛みだけが、少しずつ和らいでいく。
そして、最後に残ったのは。
声にならない、温かな思いだった。
◇ ◇ ◇
やがて、その胸元に小さな光が灯った。
天鱗核。
幾重もの鱗に包まれた金色の核が、池の水鏡の中に映し出されていた。
翠蓮は、しばらくその光を見つめていた。
「……ふむ。やはり、深く結びついておるのう」
「何か問題があるのですか?」
ハユが尋ねた。
「今すぐにどうこうということはない。じゃが、天鱗核はすでに寧々の生命の巡りと一体になっておる。力ずくで引き剥がせば、命に関わろう」
「……やはり」
「案ずるな。分離が不可能と決まったわけではない。今は、無理をせぬことじゃ」
翠蓮は、再び祭文を唱えた。
金色の光がゆっくりと静まり、ネネを包んでいた水が透明さを取り戻してゆく。
やがて、翠蓮が頷いた。
「よい。寧々の禊は、これでひとまず終わりじゃ」
ネネが池から上がると、待ち構えていた慈雨が乾いた布を差し出した。
「大丈夫か?なんともないな」
「うん!なんだか、すっきりした!」
その声に、ハユもわずかに表情を和らげた。
「……さて」
翠蓮が、こちらを向いた。
「次は、そなたじゃ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、ネネの禊のお話でした。
病に伏していた幼い日々。自由に動けない身体へのもどかしさ。そして、どんなときも自分を支えてくれた姉の存在。
禊とは、過去を忘れることではなく、その痛みと向き合い、受け入れていくことなのかもしれません。
そして、無事に禊を終えたネネとは対照的に、ハユにはまだ、封じられた記憶が残されています。
次回、いよいよハユの禊が始まります。
彼女が三年前に失ったものとは、いったい何だったのでしょうか。
引き続き、お付き合いいただければ嬉しいです。




