第70話 封じられた龍の転生
――煌淵。
翠蓮がその名を口にした途端、空気が張り詰めた。
どく、どく、という心臓の音が、やけに近く聞こえてくる。
――落ち着け。どうした。
ハユは自分に言い聞かせる。
その様子には気づかず、スイレンはなおも言い募る。
「古の世に姿を消したはずの虹龍を、この世に呼び戻そうというのじゃ。しかも、そのよう怪しげな輩のもとに、王宮の者まで出入りしておるという噂がある」
『…………』
「まったく、嘆かわしいことよ。天龍を祀り、龍脈を守ってきた緑龍家が見限られ、得体の知れぬ邪法にすがる者どもが幅を利かせておる」
翠蓮は、カナルの胸元を睨みつけた。
「これもすべて、おぬしが勝手に姿を消したせいじゃ」
『……ずいぶんと、勝手な言い分じゃのう』
「何じゃと?」
『龍が去ったから人が堕ちたと申すか。己らの欲に目が眩んだことまで、わしのせいにするでない』
「……おぬし!」
『龍脈が衰えたのも、祭祀が乱れたのも、果たしてわしが去ったからだけかのう』
翠蓮は、言葉を詰まらせた。
『人が龍を祀るのは勝手じゃ。しかし、龍を己の望みを叶える道具にしようとしたとき、何が起こるか……そなたも知らぬわけではあるまい』
「…………」
翠蓮は、しばらく黙っていた。
『第一、わしみずから龍国を<去った>わけではない。玄国の者どもがわしの魂魄――すなわち魂の宿る天鱗核を持ち去ったのが原因であろう。責任転嫁するでないわ』
そして、ふん、と鼻を鳴らす。
翠蓮は、忌々し気に舌打ちした。
「……相変わらず、口だけは達者じゃな」
『そなたほどではないわ』
「黙れ、薄情者!」
ハユは、額を押さえた。
――何だ、この二人は。
しかし、翠蓮の怒りは、単なる口喧嘩ではないらしかった。
「……それだけではないのじゃ」
翠蓮は、ふいに声を落とした。
「鏡月湖のことを、覚えておろう」
その瞬間だった。
それまで憎まれ口を叩いていたテンテンが、ぴたりと黙った。
「古の世、おぬしが邪龍を封じた湖じゃ。あの湖の底には、虹龍の魂の核――虹鱗が、幾重もの結界によって封じられておった」
『…………』
「ところが、十数年前のことじゃ。何らかの原因で、その封印が緩み、結界にひずみが生じた」
翠蓮の表情が険しくなる。
「湖面には夜ごと虹色の光が揺らめき、魚は死に、水辺の草木は枯れたという。湖に近づいた者が、得体の知れぬ声を聞いたという話まで残っておる」
ネネが、ごくりと唾を呑んだ。
「……それで、どうなったの?」
「鏡月湖は、禁忌の湖として封鎖された。湖水は穢れたものとされ、立ち入りはもちろん、水を汲むことさえ固く禁じられたのじゃ」
『封鎖は、正しい判断じゃな』
テンテンが呟いた。
翠蓮が眉を寄せる。
「しかし、間に合わなかった」
『なに?』
「あの湖の水は、古くから霊験あらたかなものとして珍重されておった。とりわけ、子を宿した女どもには、安胎の霊水などと呼ばれておったのだ」
テンテンは、低くうなる。
「鏡月湖には、龍の神気が満ちておった。子を宿す者がその水を飲めば、丈夫な子が生まれるなどという言い伝えもあったのう」
翠蓮は、続ける。
「……実際、封鎖される以前に、近隣の村の女たちが湖水を汲んでおったという報告があった」
『…………』
「安産祈願と称して、身重の女が数人も、その水を口にしたらしい」
沈黙が落ちた。
いつもなら、すぐに軽口のひとつも返してくるテンテンが、何も言わない。
やがて。
『……まずいのう』
その声には、先ほどまでの余裕がなかった。
「何がじゃ?」
『虹鱗は、ただの龍の鱗ではない』
テンテンは、ゆっくりと言った。
『あれは、虹龍の魂魄を宿す核じゃ。たとえ砕け散ろうとも、その一片にさえ、奴の魂の欠片が宿る』
「……その通り」
『封印が緩み、虹鱗の欠片が湖水に溶け出しておったとしたら……』
そこで、言葉が途切れた。
「……身重の女たちが、その水を飲んだとしたら?」
『母の胎内に宿る命は、まだ魂の器が定まりきっておらぬ。そこへ虹鱗の欠片が入り込んだならば……』
「…………」
『その胎児の魂と、虹龍の魂魄が結びつくことも、あり得ぬ話ではない』
ネネが、思わず胸元を押さえた。
「それって……」
『最悪の場合、じゃ』
テンテンの声が、ひどく低くなった。
『虹龍は、すでに人の子として、この世に生まれ落ちておるやもしれぬ』
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
翠蓮は、ゆっくりと唇を開いた。
「……それでは、虹龍を呼び戻そうとしておる連中は……」
『何も知らずに、封印された龍を目覚めさせようとしておるのかもしれぬ』
テンテンは、そこで一度、言葉を切った。
『あるいは――』
「……あるいは?」
『すでに、その器がどこにあるのか、知っておるのやもしれぬな』
翠蓮は、険しい顔で俯いた。
湖に封じたはずの邪龍。
その魂が、人の胎内に入り込み、人として生まれ変わっていたとしたら。
しかも、その存在を王宮の誰かが知っているとしたら――。
「……龍が、ヒトの子として転生しておるとすれば」
翠蓮が、かすれた声で尋ねた。
「その者は、自分が虹龍であることを知っておるのか?」
『……分からぬのう』
テンテンは、珍しく言葉を濁した。
『人として生まれ、人として育ったのなら、己の正体など知らずにおるかもしれぬ』
「…………」
『じゃが、ひとたび虹鱗が目覚めれば……』
その先を、テンテンは口にしなかった。
ただ、ひどく不機嫌そうに呟いた。
『……厄介なことになったものじゃ』
そのとき、廊下の奥から侍女が姿を現した。
「翠蓮様。お茶のご用意が整いました」
「……おお、そうか」
翠蓮の表情が、ぱっと明るくなった。
「では、ひとまず茶にするかのう」
先ほどまでの険悪な空気は、どこへやら。
「そなたらも来るがよい。話の続きは、菓子を食べながらじゃ」
ハユは、呆気に取られた。
――切り替えの早い巫女だな。
◇ ◇ ◇
客間には、すでに茶と菓子が用意されていた。
蜜を絡めた胡桃、棗を練り込んだ餅、花の形に焼いた菓子。
「わあ! おいしそう!」
ネネが歓声を上げた。
「ふふん。当然じゃ。わらわが選び抜いた菓子ばかりじゃからのう」
「翠蓮様が選んだの?」
「うむ。町で評判の菓子屋は、ひととおり調べ尽くしておる。どの店の何がうまいか、季節ごとの新作は何か、わらわの知らぬ菓子など、そうそうあるものではないぞ」
「すごい!」
「この棗餅など、朝には売り切れてしまう人気の品じゃ。今朝も使用人を夜明け前から並ばせて、ようやく手に入れたのじゃぞ」
「ええっ!そんなに人気なの?」
「無論じゃ。うまい菓子を手に入れるには、情報と手間を惜しんではならぬ」
翠蓮は、いかにも得意げに胸を張った。
『……その熱意を、少しは祭祀にも向けたらどうじゃ』
「黙れ、薄情者!祭祀も菓子も、わらわは一切手を抜かぬわ!」
『ほっほっ。実に頼もしいことじゃ。……おお、胡桃の蜜がけではないか。よいのう、よいのう』
「ふふっ。翠蓮様って、本当にお菓子が好きなんだね!」
「無論じゃ。甘味は人生の喜びじゃからのう」
「じゃあね、翠蓮様。わたしも、とっておきのものを持ってるんだ」
そう言うと、ネネはおもむろに袖の中を探りはじめた。
「……何じゃ?」
「えへへ。実はね、朱国から持ってきたの」
取り出したのは、小さな錦の包みだった。
丁寧に結ばれた紐を解くと、中から現れたのは、色とりどりの小さな干菓子である。
薄紅の花びらを幾重にも重ねたもの。翡翠色の葉をかたどったもの。白い月を思わせる、透き通った砂糖菓子。
どれも指先ほどの大きさで、食べるのが惜しくなるほど精巧な細工が施されている。
「……ほう!」
翠蓮が、身を乗り出した。
「これは見事じゃ。朱国の菓子は、美しいな!」
「でしょう?旅の餞別にもらったの。朱国で一番立派な楼閣の楼主なんだよ。綺麗なものが好きな人なの」
「ほう……。なるほどのう。これほど繊細な細工、ただの菓子職人の仕事ではあるまい。色の取り合わせも、実に雅じゃ」
翠蓮は、すっかり目を輝かせている。
「わらわにくれるのか?」
「もちろん!お菓子交換ね」
「おお……!」
翠蓮は、感極まったようにネネの手を握った。
「寧々(ネネ)よ。そなた、なんと気立てのよい娘じゃ!」
「えへへ」
二人は顔を見合わせ、嬉しそうに笑った。
『……おい』
そのとき、テンテンの声が割って入った。
『そなた、そのような美味なる菓子を隠し持っておったのか!』
「うん。大事に取っておいたの。この間、ジウとふたりでこっそりお夜食に食べたんだ」
まったく、という表情で、ハユはネネをにらむ。
『ならば、わしにもひとつよこさんか。朱国の菓子とは、実に興味深い!』
「だめ。まずは翠蓮様に選んでもらってからだよ」
『……何じゃと!?』
テンテンが、素っ頓狂な声を上げた。
『わしを差し置いて、巫女を優先するとは!不公平じゃ!』
「だって、テンテンはいつもわたしのお菓子を食べてるでしょう?」
『それとこれとは話が別じゃ!』
「ふふん。聞いたか、天龍よ」
翠蓮は、勝ち誇ったように顎を上げた。
「日頃の行いというものが、こういうところに表れるのじゃ」
『おぬしに言われとうないわ!』
「ねえ、翠蓮様。どれがいい?」
「そうじゃのう……。この薄紅の花の菓子が気になる。じゃが、こちらの翡翠色のものも捨てがたい……」
「じゃあ、半分ずつにしようよ!」
「おお!それは名案じゃ!」
二人はすっかり意気投合し、菓子を半分に割っては、色や香り、口溶けについて楽しげに語りはじめた。
『……わしの分は?』
「あとでね」
『あとでとは、いつじゃ!』
「二人で選び終わってから!」
『この偉大なる天龍に残り物を与えようなどと、なんたる不敬!!』
天龍の抗議など、もはや誰も聞いていなかった。
ハユは、楽しそうに菓子を交換する二人を眺め、思わず小さく笑った。
――まるで、仲のよい姉妹だな。
つい先ほどまで、虹龍の転生などという恐ろしい話をしていたとは思えない。
その横では、古の天龍が、たった一粒の菓子を求めて、なおも不満を訴え続けていた。
第70話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、封じられた虹龍の転生という、物語の核心に関わる話が明らかになりました。
……が、そんな重大な話の直後に、すっかりお菓子談義に夢中になる翠蓮とネネ。そして、たった一粒のお菓子をめぐって大騒ぎする天龍様。
どうやら、神様も甘いものには勝てないようです。
さて、虹龍は本当に人として生まれ変わっているのでしょうか。そして、その正体は――。
少しずつ動き始めた謎とともに、賑やかな一行の旅を引き続きお楽しみいただければ幸いです。




