第69話 新たな龍
『そもそも、天鱗核を龍国から持ち去ったのは、玄国の連中じゃぞ。我が自分の意志で出奔したわけではない。責める相手を間違えておるのではないか?』
「ほう。そう来たか」
翠蓮は、にやりと笑った。
「なるほど。盗まれたから仕方がない、と」
『そのとおりじゃ。物事には道理というものがある』
「では、ひとつ尋ねよう」
『何じゃ』
「おぬしは、いつから人の手で運ばれねば動けぬ荷物になったのじゃ?」
『……む?』
「天龍ともあろう者が、盗まれたから帰れぬ? 笑わせるでないわ。天鱗核は、おぬしの神気を宿す器であろう。己の力を取り戻すことも、神降ろしを通じて人の世に働きかけることも、まったくできぬわけではあるまい」
『ふむ』
「そもそも、おぬしは昔から束縛を嫌う龍じゃ。祭祀だの神託だの、決められた務めを果たすことが大嫌い。玄国で好き勝手に過ごせるのをよいことに、戻るのが面倒になったのではないか?」
『ほっほっ。なかなか鋭いのう』
「笑ってごまかすでない!」
『いやいや。そなた、玄国を甘く見ておるぞ』
典禅は、どこか楽しげに言った。
『あの国の連中は、なかなか侮れぬ。神の領域、龍の生態、龍脈と神気の仕組み……ありとあらゆるものを、恐ろしく高度な方法で研究しておる。古い祭祀の知識だけで測れる相手ではないぞ』
「……研究?」
『うむ。人というものは面白い。神を崇めるばかりか、神の力を測り、分解し、理屈で解き明かそうとする。実に大胆不敵ではないか』
「おぬし、まさか……」
『何じゃ』
「玄国の連中に、面白がって協力しておったのではあるまいな?」
『ほっほっ。さて、どうかのう』
「……図星か!」
『決めつけはよくないぞ、巫女よ。我はただ、人の知恵というものに、少々感心しておっただけじゃ』
「少々、じゃと?」
翠蓮は、ぴしゃりと言った。
「神を研究対象にする者たちが、どこまで踏み込むかもわからぬのに、面白がって眺めておったというのか。おぬしは、自分が何者であるかを忘れたのではあるまいな」
『忘れるものか。我は天龍・典禅じゃぞ』
「ならば、少しは天龍らしい責任感を持て!」
『ほっほっ。責任、責任と。そなたら人間は、まことにその言葉が好きじゃのう』
「責任を果たさぬ者ほど、その言葉を嫌うものじゃ」
『……ほう』
典禅が、愉快そうに笑った。
『見事じゃ。そこまで言い返してきた巫女は、久しぶりじゃのう』
「歴代の巫女が、おぬしを言い負かすために積み上げてきた知恵じゃ。甘く見るでないわ」
『ほっほっ。なるほど。代々、我への悪口まで受け継いでおるわけか』
「悪口ではない。事実の積み重ねじゃ!」
ネネは、とうとう声を上げて笑い出した。
「ふふっ。すごい! テンテンが言い負かされてる!」
『誰が言い負かされたと言うた。我はまだ何ひとつ負けておらぬぞ』
「そういうのを負け惜しみと言うのじゃ」
『やれやれ。小さいくせに、口だけは達者じゃのう』
「小さいは余計じゃ!」
それから、翠蓮は、呆れたようにため息をついた。
「それにしても、実体化も満足にできぬとは。始祖龍ともあろう者が、ずいぶんと衰えたものじゃ」
『最近は、そうでもないぞ』
「ほう?」
「あのね、翠蓮様」
ネネが、嬉しそうに口を挟んだ。
「ジウが神降ろしをしてくれるの!」
「……なに?」
翠蓮が、目を見開いた。
「ほお。あやつ、ちゃんと<おろせる>ようになったのか」
「うん!すごく複雑な陣を描くんだよ。歩数とか、踏み出す角度とか、方位とかも大事なんでしょう?毎回、テンテンを降ろしたあと、へとへとになってるけど」
「……ふむ」
翠蓮は、少し考え込んだ。
「まあ、あやつにも巫覡の血は流れておるからのう。素質がないわけではない。とはいえ、神降ろしのたびにへばっておるようでは、まだまだ修行が足りぬわ」
『そなたもな』
「何じゃと?」
『その小さな身体で、我の神気を受け止められるかのう』
「わらわを侮るでないわ!」
翠蓮の左目を彩る翠紋が、ひときわ強く輝いた。
その瞬間。
庭の水面が、風もないのに波立った。
「……?」
ハユは、思わずそちらへ目を向けた。
池の底から、淡い金色の光が立ち上っている。
それは幾筋もの細い光となって水面を巡り、やがて一つの輪郭を描きはじめた。
長い髭。
鋭い角。
ゆったりとうねる胴。
金色の龍だった。
ほんの一瞬。
水面に映ったその姿が、悠然と首をもたげた。
「……!」
ハユは、思わず腰を浮かせた。
「テンテン!」
ネネが、嬉しそうに声を上げる。
だが、次の瞬間には、龍の輪郭は崩れ、金色の光も水底へと消えていった。
池には、再び静けさが戻る。
「……今のは」
ハユが呟くと、翠蓮は鼻を鳴らした。
「神気が水に映っただけじゃ。神降ろしをしたわけではない。わらわの翠紋が、ネネに宿る天鱗核と共鳴したのであろう」
「……共鳴」
「うむ。とはいえ、あれほどはっきり姿が映るとはのう」
翠蓮は、ネネの胸元へ視線を戻した。
「おぬし、ずいぶんと力を取り戻しておるようじゃな」
『ふふん。ようやくわかったか。我が本気を出せば、この程度、造作もない』
「では、さっさと実体化して、緑龍家へ戻ってきたらどうじゃ」
『……む』
「どうした。先ほどまでの威勢はどこへ行った?」
『そなた、なかなかしつこいのう』
「歴代の巫女たちが、何百年もおぬしを相手にしてきたのじゃ。しつこさでは負けぬわ」
『ほっほっ。実に頼もしいことじゃ』
翠蓮は、ふん、と鼻を鳴らした。
「……翠蓮殿」
ハユが、静かに口を開いた。
「先ほど、歴代の巫女の記憶を継いでいるとおっしゃいましたね」
「そうじゃ」
「それは、どういうことなのです?」
翠蓮は、しばらくハユを見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「緑龍家は、代々、天龍と人との間に立ち、天鱗核を守ってきた家系じゃ。わらわは、その歴代の巫女たちの記憶の一部を継いでおる」
「……記憶の一部?」
「うむ。祭祀の作法、神託の言葉、かつて天龍と交わされた約束。そうしたものが、折に触れて、この身に蘇るのじゃ」
翠蓮は、自らの左目を指でなぞった。
「もっとも、何もかも知っておるわけではない。記憶は断片的で、時には何のことやら、わらわにもわからぬ。じゃが、必要なときに、ふいに古い記憶が目覚めることがある」
「……不思議なものですね」
「そうじゃろう」
翠蓮は、少し得意げに笑った。
「緑龍家には、古くから伝わる言葉がある」
そして、静かに告げた。
「巫覡の目は、神を見るためのものではない。神が人の世を見るための窓である、とな」
その声には、先ほどまでの子どもじみた怒りなど、微塵もなかった。
ハユは、改めて目の前の少女を見た。
小さな身体。
幼い顔立ち。
だが、その翡翠色の瞳の奥には、底知れぬ深さがあった。
「……その役目と、身体の成長が止まったことにも、関わりがあるのですか」
「そうじゃ」
翠蓮は、こともなげに答えた。
「わらわの身体は、神意を受ける器となるため、幼い姿のまま留まったのじゃ。なぜそうなるのか、すべてが解き明かされておるわけではないがのう」
翠蓮は、肩をすくめた。
「まあ、わらわ自身は不自由しておらぬ。むしろ、巫女としては好都合なことも多い」
『ふん。立派な口上じゃのう』
ネネが、くすっと笑った。
翠蓮の眉が、ぴくりと動く。
「……天龍よ」
『何じゃ』
翠蓮は、先ほどとは違う、冷ややかな声で言った。
「おぬしの不在をよいことに、今の龍国で何が起きておるか、知っておるか?」
『ほう。何じゃ、改まって』
「おぬしが緑龍家から姿を消して以来、龍脈は衰え、祭祀の力も弱まる一方じゃ。かつては王家でさえ、緑龍家の神託を仰いだというに、今ではどうじゃ」
その小さな手が、ぎゅっと握られた。
「王都の暗巷には、禁じられた術を弄ぶ邪術師どもが巣食っておる。古い祭祀を嘲り、龍脈を人の欲のために利用しようとする輩まで現れた」
『ふむ。人の欲というものは、尽きぬからのう』
「他人事のように申すな」
『他人事ではない。じゃが、人の欲まで我のせいにされては、たまらぬわ』
「……そうじゃな。人の欲は、おぬしの責ではない」
翠蓮は、静かに頷いた。
「じゃが、その欲が何を呼び覚まそうとしておるのかを知れば、おぬしも笑ってはおれまい」
『……何じゃと?』
「近頃、王都の邪術師どもは、天龍に代わる新たな龍を崇めはじめておるという」
『新たな龍?』
「おぬしがかつて鏡月湖に封じた、邪悪なる虹龍。まさか忘れたわけではあるまい」
沈黙が落ちた。
いつもなら、すぐに軽口の一つも返してくるはずの天龍が、何も言わない。
「……テンテン?」
ネネが、不安そうに胸元へ手を当てた。
翠蓮は、その様子を見つめていた。
左目の翠紋から、淡い光が消えてゆく。
そして、感情の起伏のない声で告げた。
「――煌淵じゃ」
その名を聞いた瞬間。
ハユの心臓が、どくり、と音を立てた。
今回も、翠蓮とテンテンの舌戦は絶好調。何百年も前から続く緑龍家の巫女と天龍の因縁は、どうやら一筋縄ではいかないようです。
けれど、そんな騒がしいやり取りの中で、少しずつ明らかになる翠蓮の特別な力。歴代の巫女の記憶を受け継ぎ、神と人をつなぐ役目を担う彼女の小さな身体には、長い年月をかけて積み重ねられた知恵と使命が宿っています。
そして、物語は新たな局面へ。
衰えゆく龍脈、王都に暗躍する邪術師たち、そして天龍に代わって崇められ始めたという、新たな龍。
その名は、煌淵。
いつもは軽口ばかりのテンテンが、その名を聞いた途端に沈黙した理由とは。そして、ハユの心臓が大きく脈打ったのは、なぜなのか。
少しずつ、三年前の「あの夜」へとつながる糸が見え始めます。
どうぞ、次回もお楽しみに。




