第7話 侵入者
「まず、この店の問題点を洗い出します」
翌朝。
奏は、卓の上に紙を広げた。
墨をたっぷり含ませた筆を握り、中央に大きく一文字。
――金。
蘇白瑶は黙ってそれを見た。
「ないな」
「ないのよ」
「昨日聞いた」
「だから、増やします」
「どうやって」
「それを今から考えるんでしょう!」
朝から妹は元気だった。
白瑶は安心した。
昨日、奏は一瞬ふらついた。
脈も診たが、特に異常はなかった。
最近、少しずつ身体も丈夫になってきている。
十三歳になり、背も伸びた。
頬にも幼い頃にはなかった血色がある。
これなら大丈夫だろう。
――そう思うことにした。
「では、姉さま。質問です」
「うむ」
「この店のお客様は誰ですか?」
「人だ」
即答する。
獣人や精霊や魔族ではない。少なくとも。
昔は、異種族の者ともよく戦ったものだ。
ふと、戦場をともに駆けた相棒と、行き倒れていたところを拾って以来、妙によく懐いてきた少年の顔が脳裏をよぎる。
――今頃、どうしているだろう。
そう思いかけて、白瑶はやめた。
浮かびかけた記憶を、何でもないことのように頭の隅へ追いやる。
「…………」
「違うのか?」
「違わないけど!」
奏は早くも額を押さえた。
「そうじゃなくて。どんな人に来てもらいたいの?」
「病人」
「もっと具体的に!」
「怪我人」
「そういうことじゃない!」
難しい。
白瑶は腕を組んだ。
軍議より難しいかもしれない。
敵なら分かる。
兵数。
地形。
兵糧。
武器。
士気。
それらを調べれば、どう動くかは予測できる。
しかし客というものは、何を考えているのかよく分からない。
「昨日ね」
奏が言った。
「また、変な夢を見たの」
「夢?」
「うん」
奏自身にも、うまく説明できない。
巨大な建物。
無数の人間。
色とりどりの商品。
そして、知らない言葉。
「たーげっと」
「たあげっと?」
「……たぶん、そんな感じ」
「何語だ」
「知らない」
「では使わない方がいい」
「でも意味は分かるの」
奏は筆を走らせた。
――誰に売るのか。
「みんなに買ってもらおうとしたら、結局、誰にも買ってもらえないんだって」
「なぜだ」
「それを今考えてる」
「分からないのか」
「夢だからね」
万能ではないらしい。
白瑶は少し安心した。
「例えば、このお茶」
奏が棚から一つ取った。
「何に効く?」
「冷え。血行を促す。特に手足が冷える者にいい」
「じゃあ、誰に売る?」
「冷えている者」
「そう!」
奏が嬉しそうに筆を走らせる。
――冷えに悩む人。
「こっちは?」
「疲労。眠りの浅い者にも使う」
――疲れて眠れない人。
「これは?」
「腹を下した者」
「……それは、お茶として売らない方がいいかも」
「なぜだ」
「美味しそうじゃないから」
「薬は味ではなく効能だ」
「そこ!」
びしっ。
奏が白瑶を指した。
「それが、姉さまの一番ダメなところ!」
白瑶は眉を寄せた。
「効く薬を売って、何が悪い」
「悪くない。でも、具合が悪くなってからしか来ないでしょう?」
「薬屋だからな」
「だったら、お客さんは元気になったら来なくなるじゃない!」
白瑶は止まった。
それは――。
「……良いことでは?」
「薬師としてはね」
奏は頭を抱えた。
この姉は根本的に商売に向いていない。
患者が治れば、本気で喜ぶ。
二度と来なければ、なお喜ぶ。
薬を売ることと、患者を治すことが、白瑶の中では完全に別物なのだ。
「薬だけじゃなくて、お茶も売るのよ!」
「私の煎じるのは薬茶だ」
「もっと普通のお茶!」
「普通の茶なら町で買える」
「ここまで来ないと飲めないお茶にするの!」
白瑶は首を傾げた。
「なぜ、わざわざ山まで来る」
「だから、その理由を作るんだってば!」
奏は大きく息を吸った。
落ち着け。
商売とは忍耐だ。
たぶん。
「まず今日は、誰に来てもらうかを決めます」
「だから、病人」
「ハユ姉さまはしばらく黙ってて」
「分かった」
白瑶は素直に黙った。
◇
一刻後。
奏は絶望していた。
「……誰も通らない」
「ああ」
「昨日も?」
「ああ」
「一昨日は?」
「鹿が通った」
「鹿はお金払わない!」
薬茶館の前には細い山道が一本ある。
街道と呼ぶには心許ない。
麓の町まで徒歩で一刻半。
馬車ならもう少し早いが、途中に馬車同士がすれ違えない場所が三か所ある。
つまり。
やはり、どう考えても、致命的に立地が悪い。
「姉さま」
「なんだ」
「どうしてこんなところ買ったの」
「療養に最適だと言われた」
「商売には最悪だよ!」
「商売をする予定ではなかった」
奏が止まった。
「……そうなの?」
「ああ」
白瑶は庭の薬草へ水をやりながら答えた。
「お前を治すために買った」
さらりと言われて。
奏は言葉を失った。
そういうことを、この姉は何でもないことのように言う。
「空気がいい。水もある。薬草も育つ」
「……でも騙されたんでしょう?」
「結果的にはな」
「相場の十倍」
「そうらしいな」
「怒らないの?」
「なぜだ」
「騙されたんだよ?」
白瑶は少し考えた。
それから、山を見た。
「お前はここが嫌いか?」
「え?」
「私は好きだ」
風が吹いた。
薬草の葉が揺れる。
遠くで鳥が鳴いた。
「お前の顔色も、ここへ来てからずいぶん良くなった」
白瑶はそれだけ言って、桶を持って歩いていった。
奏はしばらく、その背中を見ていた。
「……ずるい」
そんなことを言われたら。
この店を潰すわけにはいかなくなる。
奏は頬を叩いた。
「よし!」
まず、客を呼ぶ。
どうやって。
看板?
広告?
口コミ?
また知らない言葉が頭の中を通り過ぎる。
宣伝。
認知。
集客。
「……認知?」
何だろう。
でも意味は分かる。
存在を知られていないものは、選ばれない。
「そうか」
奏は顔を上げた。
「まず、知ってもらえばいいんだ」
「何を?」
後ろから声が響いた。
「うちのお店を――」
そのときだった。
からり、と。
背後で、木戸の鳴る音がした。
「いらっしゃ――」
奏が振り返るより早かった。
白瑶が消えた。
「え?」
正確には、動いたのだ。
薬箪笥の抽斗を引く。
そこに収めていた短剣を抜く。
振り向きざま、戸口に立つ男の懐へ一気に踏み込んだ。
男の手首を取る。
捻る。
体勢を崩す。
どん、と壁へ押しつけるまで、ほんの一息だった。
白瑶の左腕が男の動きを封じ、右手の短剣がその首筋へぴたりと添えられる。
「動くな」
低い声だった。
刃先が皮膚へ触れる。
あと一分押し込めば、血が出る。
「ね、ねえさま!?」
奏がようやく声を上げた。
「お客さん!たぶん、お客さんだから!」
「違う」
白瑶は男から目を離さない。
「え?」
「客なら、足音がする」
白瑶の淡紫の瞳が鋭く細められた。
「こいつは、気配を消して入ってきた」
青年は抵抗しなかった。
壁へ押しつけられ、首に刃を当てられているというのに、妙に落ち着いている。
艶のある濡羽色の髪。その中に一房だけ混じった暗紅が、頬へさらりと落ちていた。
それを見て、ハユの瞳が一瞬揺れた。
「・・・おまえ?」
「なるほど」
青年が呟いた。
「まさか、とは思いましたが」
抑えつけられながら、白銀の髪を結い上げた美しい女薬師を、青年は横目で見上げる。
この手首の取り方。
重心を崩す方向。
首筋へ刃を添える癖。
忘れるはずがない。
「・・・本当に、女性だったとは」
側近たちとの賭けは、惨敗だ。
認めたくはないが。
多門はおもしろがるだろう。
承寧は不機嫌になる。明珠は笑い転げ、慈雨は怒るにちがいない。
「・・・この僕が、気が付かなかったなんて」
その声。その抑揚。
覚えがある、とはハユは思う。
しかし、高さが違う。
「三年も山奥にこもって薬師なんてやっていると聞いたので、少しは鈍ったかと思いました」
「…………」
「相変わらずですね」
白瑶の淡紫の瞳が、わずかに見開かれた。
青年がゆっくり顔を上げる。
落ち着いた青翠色の瞳。
その目が、人懐こく笑う。
にこり。
「――お久しぶりです、ハユ先輩」
お読みいただきありがとうございます!
まずは、お客様を呼ばなければ。
そのためには、薬茶館の存在を知ってもらわなければ――。
と、奏がようやく《集客》の第一歩を踏み出したところで。
向こうから来ました。
三年間、大陸中を探し続けた相手との再会がこれです。
そしてついにコウも知ることになりました。
《軍神》蘇白瑶は――本当に女性だった。
それでも。
声が違っても。姿が違っても。三年経っても。
戦い方だけは、変わらない。
ようやく、二人の時間が再び動き始めます。
次話もお付き合いいただけたら嬉しいです!




