第65話 隠された婚礼
玉蘭は、しばらく窓の外を眺めていたが、やがて何事もなかったかのように微笑んだ。
「緑龍家へ使いを出しなさい」
「承知いたしました」
「禊ぎの支度を、滞りなく進めるように」
「はい」
「それから」
玉蘭は、静かに付け加えた。
「あの女について、調べておきなさい」
「……どの程度まで?」
「すべてよ」
微笑みは、消えなかった。
「名前も、出自も、コウ様との関係も。何ひとつ、見落とさないように」
「・・・御意」
「あの方とどこで知り合い、どれほどの時間を共に過ごしたのか。誰の紹介で近づいたのか。以前はどこにいたのか。洗いざらい調べなさい」
「かしこまりました」
朧は、少し考えてから付け加えた。
「ただし、姫様。表立って探れば、殿下のお耳にも入りましょう。調べるのであれば、慎重になさいませんと」
「……わかっているわ」
「では、こちらで手配いたします」
朧は、あっさりと答えた。
黄龍家には、長年にわたって築いてきた独自の人脈がある。
表向きの使者ではなく、商人や宿館の者を通じて探ればよい。
旅の道筋をたどるだけでも、何かしら見えてくるはずだ。
それに、あの護衛の女。
――どこかで、会ったことがある。ような、気がする。
立ち居振る舞いに、無駄がない。
人の目を恐れず、しかし必要以上に目立とうともしない。
朧は、ひそかに興味を覚えていた。
そのときだった。
窓の外で、コウがハユの肩へそっと手を添えた。
玉蘭は、それをじっと見つめていた。
あの方が、女の肩に自ら手を添えるなど。
それも、あんなに自然に。
「…………」
白い指が、膝の上の絹をきゅっと握りしめた。
――わたくしの男に。
――よくも、あのように馴れ馴れしく。
「……あばずれが」
「さきほどからお口が悪うございますよ、姫様」
「うるさいわね!」
「はい」
「美しい顔をして、ずいぶんと手慣れた女だこと。あの方の優しさにつけ込んで、いったいどこまで取り入るつもりなのかしら」
玉蘭は、唇を歪めた。
「薄汚い野良猫が、拾われた途端に主人の膝を自分の居場所だと思い込む。滑稽なことね」
「……姫様」
「何よ。まだ何か言いたいの?」
「野良猫と申しますが、あの方は、なかなか爪の鋭そうなお方でございますよ」
「だから?」
「不用意に手を出せば、引っかかれるのはこちらかもしれません」
玉蘭は、冷たく笑った。
「だったら、爪を抜いてしまえばよいだけでしょう」
「…………」
朧は、ほんのわずかに目を細めた。
――爪を抜くにしても、相手をよく見定めてからでございますよ、姫様。
朧は、胸の内でそう呟いた。
やがて、玉蘭は小さく息を吐いた。
「……まあ、いいわ」
次の瞬間には、いつもの優雅な淑女に戻っていた。
「さあ、参りましょう」
鈴を転がすような声。
「婚礼の支度を進めなくては」
朧が、わずかに眉を上げた。
「……婚礼、でございますか?」
「ええ」
「ですが、王弟殿下は……まだ、ご存じないのでは?」
玉蘭は、不思議そうに朧を見た。
「何か問題でも?」
「いえ。ただ、殿下のお気持ちは、まだ確かめておられぬのではないかと」
玉蘭は、小さく笑った。
「これは陛下がお定めになった婚儀。王弟殿下の帰還に合わせて婚礼を執り行うよう、すでに勅命は下りているのよ」
そっと手袋をはめ直す。
「コウ様も、王族としてのお立場をよくご存じですもの。陛下のご意向に背くようなことは、なさらないでしょう」
「……さようでございますか」
朧は、それ以上口を挟まなかった。
――さて。それはどうでしょうねえ。
先ほどの王弟殿下の様子を見るかぎり、そう簡単に事が運ぶとは思えなかった。
あの方は、どうやら姫様が思っているほど従順な王弟ではないらしい。
「それに」
玉蘭は、もう一度だけ窓の外を見た。
「殿方というものは、ときに珍しいものへ心を奪われることもあるのでしょう。けれど、珍しさと、ふさわしさは別のものよ」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「一時の気まぐれで連れ帰った女と、生涯を共にする妻とでは、そもそも比べること自体が間違っているわ」
玉蘭は、満足そうに微笑んだ。
「コウ様の隣に立つのは、わたくし。生まれたときから、そう決まっているのですもの」
「……おっしゃるとおりでございます、姫様」
朧は、静かに頭を下げた。
その言葉に嘘はなかった。
黄龍家の嫡女と、龍王の弟。
家格も、血筋も、王家とのつながりも、これ以上ないほど釣り合っている。
ただ。
――人の心ばかりは、家柄では縛れませんからねえ。
朧は、窓の外へちらりと目をやった。
生意気な護衛の女は、王弟殿下に何か言い返しているらしい。
殿下が、困ったように笑った。
その表情を見て、朧はひそかに息をついた。
――これは、少々厄介なことになりそうですねえ。
馬車が、ゆっくりと動き出した。
第65話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、玉蘭の恐るべき計画が明らかになりました。
コウの知らないところで、着々と進められる婚礼の準備。本人の気持ちなど、玉蘭にとってはさほど重要ではないようです。何しろ、生まれたときから自分こそが王弟の妻になると決まっているのですから。
一方、ハユへの嫉妬は、もはや隠しようもありません。とうとう「爪を抜いてしまえばよい」とまで言い出す始末。
そんな姫君を、いつものように涼しい顔で眺める朧。けれど、彼女もまた、ハユのただならぬ気配に気づきはじめています。
王弟の心を疑わない姫君と、その心がすでに別の誰かへ向いていることを見抜いている侍女。
さて、婚礼の支度は、このまま順調に進むのでしょうか。
どうぞ、次回もお楽しみに。




